211刈場坂(苅場坂)峠

2011/12/09

連濁

※ このカテゴリー「211刈場坂(苅場坂)峠」内の記事は、峠の表記方法や呼び方を探訪する目的で書かれています。それぞれに関連がありますので、一連の記事としてお読みいただければ幸いです。
なお、本編は22編の記事で構成されており、その目次はこちらです。

ひょんなことから、今日初めて「連濁」という言葉を知った。

奥武蔵の山、「天覧山」は「てんらんざん」と「日和田山」は「ひわださん」と呼ばれている。なぜ「山」の読みが濁ったり濁らなかったりするのだろう、つまりは、なぜ「てんらんさん」や「ひわだざん」ではないのか。
宮沢湖「みやざわこ」や鎌北湖「かまきたこ」も面白い。なぜ「みやさわこ」や「かまぎたこ」ではないのか。

新明解国語辞典第四版には、「れんだく【連濁】 ある条件下の二つの語が連接して複合語を作る時に、下に来る語の第一音節の清音が、濁音になること。例、『あめ+かさ→あまがさ』。」と記されている。

ということで本題である。「刈場坂(苅場坂)」峠の呼び方についてであるが、「かりばさか」「かりばざか」「かばさか」「かばざか」のどれが本来の呼び方なのかと調べ続けてきたのだが、結局「坂」の読みは「刈場坂(苅場坂)」が「刈(苅)場+坂」の複合語であることから、連濁しない場合とする場合で「さか」にも「ざか」にもなり得るのであって、本来は「さか」であっても、時代によって地域によって変化するものなのだということに、やっと、たどり着いたのであった。

調べたついでに「鎌北湖」。YouTubeに「毛呂山音頭」が掲載されており、その歌い手である三波春夫が「のぼりゃ さくらの かまぎたこ~♪」と鼻濁音ぽく歌っている。ウィキペディアにも「k」の音が「g」の音に連濁するときは、東日本の広い地域で鼻濁音化すると書いてあったので、確かなことは分からないが、セオリーどおりの発音なのかもしれない。この場合は連鼻濁(冗談ですhappy01)であろうか。

またまた調べたついでに、三波春夫の鼻濁音はWeb上で評価されているのだが、藤山一郎の歌を聞いても、こちらの鼻濁音もきれいだなぁと思った次第。

それはともかく、結論として、連濁は変化して当然のものと考えて良い。つまりは、刈場坂(苅場坂)峠の「坂」は、本来は「さか」であっても、「さか」も「ざか」もどちらも正しいということである。

※2011(平成23)年12月17日追記
いろいろと調べてみると、長野県飯田市に「羽場坂町」という地名があることを見つけた。読みを調べてみると「はばざかちょう」のようである。「かばざかとうげ」と似た語感があって興味深い。

2011/11/20

刈場坂(苅場坂)峠補遺

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当ブログの記事「刈場坂(苅場坂)峠その10」で、読んでみたい本として3冊を掲げていたが、その内の藤本一美著 「奥武蔵・秩父に拾う」 (「新ハイキング」1983(昭和58)年7月(第333)号に掲載)を未だに読むことができていなかったのだが、昨日、埼玉県立久喜図書館に行って閲覧してきた。

その中で新編武蔵風土記稿の高麗川の項からの引用として「水源は阪元村小丸組蒲阪村より湧出して・・・・・・」との記載があったので、改めて新編武蔵風土記稿巻之二百四十七 秩父郡之二の南川村と阪元村のそれぞれの高麗川の項を確認してみた。

確認してみると、南川村の高麗川の項では「一に我野川と云、水源は阪元村小丸組蒲阪村より湧出して(後略)」と記されている。

阪元村の高麗川の項では「一に我野川と云、水元村の西小丸組の入蒲坂、及び南澤峠の繼ぎ白岩下より出る二流合し(後略)」と記されている。

過去の当方の記事では、刈場坂(苅場坂)の記載は「武蔵国郡村誌」で初めて確認できたと記したが、音(おん)としての「刈場坂(苅場坂)」は「蒲阪」及び「蒲坂」(読みは双方とも「かばさか」又は「かばざか」と思われる)という形で「新編武蔵風土記稿」にあったということになる。つまりは江戸時代から、「かばさか」あるいは「かばざか」と呼ばれていたということであろう。

なお、高麗川源流の位置とすれば「武蔵国郡村誌」より「新編武蔵風土記稿」が記載の場所によっては正しいということになるのであろうか。

2011/02/14

奥武蔵ヒュッテのスケッチ

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大畠達司「或る峠の物語-奥武蔵・刈場坂峠-」(1998(平成10)年1月15日発行)に口絵として掲載されている奥武蔵ヒュッテのスケッチについて、当ブログに転載できることとなった。当時の雰囲気を伝える非常に貴重なスケッチである。

奥武蔵ヒュッテは、昭和初期に刈場坂峠においてスキー場として、あるいは山小屋として使用された施設である。

 

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このスケッチについて、「或る峠の物語-奥武蔵・刈場坂峠-」13頁からの引用をもって紹介に代えさせていただきたい。

「この物語を書くに当たって、二つの切っ掛けがあった。第一は、奥武蔵研究会会員の新井芳雄岳兄が、終戦直後の昭和二一年四月一八日にスケッチした奥武蔵第一ヒュッテで、口絵に用いたのはその絵である。(後略・原文縦書き)」

お話では、作者が1946(昭和21)年4月18日に伊豆ヶ岳方向を向いてスケッチし、建物手前にある岩は、刈場坂峠にある1937(昭和12)年10月の建立の祠の附近にある岩とのことであった。
現地に行ってみると、この附近には平坦な部分があり、以前にも別の記事に記したが、建物の詳細な位置や方角はともかくも、確かに建物があったとしても不思議はない。

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なお、スケッチ右下に描かれている石碑は下の写真の石碑である。この石碑は、一時行方不明となり、林道工事中に発見されたという経緯がある。また、現在の台座は発見後に作られたものである。そのような経緯から、現在の位置はスケッチ時の位置とは異なる。

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※ このブログ内の記事、スケッチ及び写真の転載等をお断りいたします。

2010/11/18

レファレンス結果

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なお、本編は22編の記事で構成されており、その目次はこちらです。

今年(2010(平成22)年)の夏ごろ刈場坂峠(かばさかとうげ)の表記及び呼び方について22編の記事により探訪した際(その結論については こちら を参照していただきたい。)に、埼玉県立浦和図書館にお願いしたレファレンスの質問及び回答の内容が、国立国会図書館のレファレンス協同データベースに掲載された。

このレファレンスの回答は、当方の刈場坂峠の表記及び呼び方に関する探訪に非常に大きな示唆というか、道筋を示してくれたというか、とにもかくにも非常にありがたいものであった。改めて、埼玉県立浦和図書館の皆様に御礼を申し上げたい。

掲載URL:http://crd.ndl.go.jp/GENERAL/servlet/detail.reference?id=1000072953

読んでみると、質問1の表記、回答1及び参考資料の『奥武蔵 山と渓谷のハイキング』の書名、『吾野観音霊験記 附吾野渓谷案内』の著者名などについては確認が必要のように思う。なお、レファレンス結果については解決である。

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※ 上の写真は当方が古書店で購入した『奥武蔵 山と渓のハイキング』」(博山房1939(昭和14)年)。

2010/09/07

古文書調査

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この記事は、「刈場坂(苅場坂)峠その結論」で予告した追記(2/2)である。

約2か月ほど前(2010(平成22)年7月5日)、飯能市郷土館に刈場坂峠の表記と呼び方について、当方のブログ上での名前「Kac」を用いてメールで問い合わせたところ、回答をいただけるとの返信があった。内容としては、近現代に関しては当方調査済みの史料以外に参考となる史料がないようで、同館所蔵(寄託)の古文書(検地帳等)を確認していただけるということであった。

約2か月を経て、先日丁寧な回答をいただいた。

飯能市郷土館の学芸員の方にはお忙しい中にもかかわらず時間を割いて確認をしていただいたのであったが、現時点での結論としては、苅場坂(刈場坂)等の記載を「確認できず」との回答であった。

確認史料等の詳細については触れないことが妥当と思う。

2010/07/31

奥武蔵ヒュッテ

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この記事は、「刈場坂(苅場坂)峠その結論」で予告した追記(1/2)である。

奥武蔵第一ヒュッテは昭和初期に刈場坂峠に武蔵野電車によって建設されたものである。

1932~33(昭和7年~8)年に発行されたと思われる同社のスキー場に関するパンフレットには、「奥武蔵ヒュッテNO1 刈場坂峠の丁字路にあり。案内所、食堂、売店、携帯品一時預り、貸スキー、スキー保管預り、風呂、暖房の設備あり。収容人員五〇人。宿泊料三〇銭(食事は別)朝食一五銭、昼夕食二〇銭。」と記されている。

大畠達司「或る峠の物語」(1998(平成10)年)の口絵には、1946(昭和21)年4月18日に作成された奥武蔵第一ヒュッテのスケッチと略図が掲載されている。

1947(昭和22)年2月8日米軍撮影の航空写真(写真名:USA_M28_115の6倍部分引伸ばし写真をさらに拡大したもの)では鮮明には確認できないものの、四角形の人工物らしきものが確認できる。(下の写真の中央付近。)

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以上である。

※ ここ数日、年配の方々にお話を伺ってみた。総合すると、飯能市、日高市、毛呂山町、越生町、ときがわ町では一般に「刈場坂峠(かばさかとうげ)」と呼ばれており、その他に、刈場坂峠南側の麓の一部では「かりばざか」と呼ばれていること、あるいは越生町やときがわ町の年配の方々は「刈場坂(かばさか)」と「峠」を付けずに呼ぶこと、加えて、ときがわ町には「スキー場」の呼び方があること、新たな情報として1955(昭和30)年頃までは刈場坂峠附近に「スキー場」の看板があったことなどを伺えた。

2010/07/26

刈場坂(苅場坂)峠その結論

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そもそも埼玉県のホームページに「苅場坂峠」の表記がなされたことに端を発したこのシリーズは、

「峠の表記は『刈場坂峠』か『苅場坂峠』か。そして呼び方は?」

という当方の素朴な疑問を、ただ単に解決しようとしたものであった。自転車探訪のブログとしては場違いとも思える記事を約3か月で22本書き続けて得た当方の結論は、

「刈場坂峠(かばさかとうげ)」

である。以下は当方の調査結果やそれに対する考え方である。

 

1 字(あざ)

現在の飯能市大字北川の小字である「苅場坂」の名称を確認することができた最も古い文献は明治初期に編纂された「武蔵国郡村誌」であり、同書には「村の西北字苅場」や河川の名称としての「苅場坂川」という表現がある。「苅場」は広い意味での秣場(まぐさば)としての入会地であり、農商務省山林局「火入ニ関スル事例」(1913(大正2)年)によれば1902(明治35)年頃までは火入れが行われていたものと思われる。

また1889(明治22)年に作成された土地台帳を見ると「苅場坂」という字が存在し、その中には入会地が含まれていることも確認できる。

字名と地域名の呼び方に境界を設けることは難しい部分もあるが、あえて記せば字名としての「苅場坂」の呼び方については、飯能市「飯能市史資料編11地名・姓氏」(1986(昭和61)年)によれば「かりばさか」であるが、現在の飯能市税務部資産税課の呼び方では「かりばざか」である。

当方の地元における聞き取り調査の結果では「かばざか」が多数派であったが、中には「刈場坂」の地域内においては、少なくとも60年程度前から「かりばざか」であったと言われる方もおられた。なお、この方のお話は「刈場坂」の地域外においては「かばざか」または「かばさか」と呼ばれている前提でのお話であった。

「苅場坂」という文字の意味するところを考えれば、「かりばざか」が理解しやすいが、地元では「かばざか」が現時点においては多数派である。

※2011(平成23)年11月20日追記
新編武蔵風土記稿巻之二百四十七 秩父郡之二の南川村の高麗川の項には「一に我野川と云、水源は阪元村小丸組蒲阪村より湧出して(後略)」と記されている。

※2011(平成23)年12月10日追記
「坂」本来の発音は「さか」であるが、日本語の発音に一般的にある「連濁」をする、しない、により「か(り)ばざか」となったり、「か(り)ばさか」となったりしているものと思われる。もしかすると「か(り)ばざか」の方が、より古く、使用頻度から考えて地元に密着した発音なのかもしれないとも思う。

 

2 地域

国土地理院の5万分の1地形図等には地域の名称として「刈場坂」が記されている。当方の聞き取り調査の結果では、地元では「刈場坂」を子の神戸から刈場坂峠にかけての一帯を指す言葉として使っている。本来の表記は「武蔵国郡村誌」の記載を持ち出すまでもなく当然に「苅場坂」のはずである。

当方の聞き取り調査の結果によれば、呼び方については、刈場坂地域の中では「かばざか」が多数派で、一部に「かりばざか」、外部の近接地域(「坂元」等)では「かばざか」、離れた地域(飯能市街・ときがわ町等)では「かばさか」が一般的のようである。

なお、大野鉄人「説経浄瑠璃節原本 武蔵野史談吾野観音霊験記 (原作)」の附録「吾野線沿線案内」(1934(昭和9)年8月6日発行)には、「正丸峠を過ぎて苅場坂上奥武蔵スキー場に着くべし」という記載があるので、昭和初期においては、一般に「苅場坂」とも表記され、「かりばざか」とも呼ばれていたものと思う。奥武蔵スキー場営業当時の状況を知る方からも、当時「苅」の字を用いたとのお話をいただいた。

 

3 峠
(1)刈場坂峠

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「刈場坂峠」については、新編武蔵風土記稿、武蔵国郡村誌等で表記を確認することはできなかった。当方の調査で記載が確認できた最も古い文献は、武蔵野電車「日帰りのスキー 奥武蔵高原」(1932~33(昭和7~8)年)のリーフレットである。なお、このリーフレット発行の年代を昭和7~8年とするのは、奥武蔵スキー場営業当時の状況を知る方からの聞き取り調査の結果によるものである。また、この聞き取り調査の結果は前項で引用した奥武蔵スキー場の記述を含む「吾野線沿線案内」の発行日が1934(昭和9)年8月6日であることから考えても妥当であると思われる。

神山弘・新井良輔「増補ものがたり奥武蔵 伝説探訪二人旅」(金曜堂出版部・1984(昭和59)年)には「(武蔵野鉄道は)今まで外秩父と総称されていたこの峠道一体を奥武蔵高原と名付け、無名の草刈場の入会地を、草刈場へ登る坂の意味から刈場坂峠と呼ばせ」との記載があるが、明治期にすでに字苅場坂が存在していたことを考慮しても、武蔵野電車の吾野駅までの開通に伴って(あるいは奥武蔵スキー場の開設に伴って)「奥武蔵高原」や「刈場坂峠」と呼ばれるようになったことは事実であろう。

その後の文献としては、小林玻璃三等「奥武蔵 山と渓のハイキング」(博山房・1939(昭和14)年)や春日俊吉「奥武蔵の山と丘陵」(朋文堂・1941(昭和16)年の改訂増補版)等がある。読みについては、「奥武蔵 山と渓のハイキング」では「かばさかとうげ」と「かばざかとうげ」が混在、「奥武蔵の山と丘陵」では「かばざかとうげ」となっている。前項に記した現在の地域の呼び方からしても、納得できる混在である。また、当方の聞き取り調査の結果では、奥武蔵スキー場営業時の実際を知る方から、当時の地元(子の神戸附近)では「かばさかとうげ」と呼んでいたとのお話を伺っている。

なお、「奥武蔵 山と渓のハイキング」(136頁)には、「吾野駅からバスで子ノ神戸・高原下に到り、それからあの気持良い林間の径を刈場坂のヒュッテ」に向ふ。刈場坂の登り口で顧る空に浮ぶ伊豆ヶ嶽は何時見てもなつかしい山の姿である。」と書かれているので、この当時ハイカーの間でも、「峠」を付けずに「刈場坂」と呼ぶことがあったことが分かる。

国土地理院の5万分の1地形図には、1959(昭和34)年部分修正版(1961(昭和36)年8月30日発行)から刈場坂峠の表記が継続してなされているが、記載当初の読みは不詳であるものの、現在は峠の所在をときがわ町とし、読みは「かりばさかとうげ」としている。

国土地理院の表記を受けてか、ハイキング関係の書籍や地図において「刈場坂峠」以外の表記は確認できなかった。また、飯能市「飯能市メガホン」1962(昭和37)年5月15日(第273)号1頁においても、ハイキング関係の記事として「刈場坂峠」の表記がなされている。

 

(2)苅場坂峠

当方の調査結果では「苅場坂峠」の表記を始めたのは埼玉県の林業担当部局の可能性が高い。

その理由は、林道苅場坂線開通以前には「苅場坂峠」の表記が飯能市で行われておらず、加えて一般的に用いられていなかったことに加え、埼玉県の行政内部において、企画担当部局は埼玉県「埼玉県総合振興計画」(1963(昭和38)年)270頁で「刈場坂峠」と表記し、環境担当部局は、奥武蔵林道開通後に至っても首都圏自然歩道(関東ふれあいの道)について「刈場坂峠」を用いているなど、埼玉県の行政内部でも林業担当部局以外では「苅場坂峠」を用いていないことによる。

埼玉県の林業担当部局は林道苅場坂線終点附近の小字が「苅場坂」であったために峠の名称を「苅場坂峠」とし、大野峠北側の林道案内標識の設置などを行ったものであるが、その後の奥武蔵林道完成式にかかる林業担当部局の情報提供は、埼玉新聞(1968(昭和43)年5月9日)「奥武蔵林道 明日待望の完成式 観光開発へ第一歩 “グリーンライン”の布石に」の記事や、飯能市「広報はんのう」(1968(昭和43)年6月1日(第411)号)の「奥武蔵林道完成 森林資源と観光の開発に期待」の記事に結果として「苅場坂峠」と表記させるなど、「苅場坂峠」を広める主要因となったように思う。
読みは、小字名を持ち込んだのであるから、当然に「かりばざかとうげ」である。

「苅場坂」の本来の意味からすれば「苅場坂峠」もうなづける表記であり、本来なら武蔵野電車が「苅場坂峠」とすれば良かったのかもしれないが、約30年の歴史を持ち広く一般に親しまれていた「刈場坂峠(かばさかとうげ)」に小字の表記を新たに持ち込んでしまったことには違和感を感じる。しかしながら、それから40年以上の月日が過ぎ去っている今に至っては、その歴史を感じるのみである。

 

(3)地元での呼び方

当方の聞き取り調査の結果では、「峠」をつけずに「刈場坂」と呼ぶのが一般的である。飯能市側での呼び方は主に「かばざか」、ときがわ町側での呼び方は「かばさか」であった。なお、ときがわ町側では「スキー場」という呼び方も現存する。

 

(4)飯能市行政

飯能市行政は、もともと飯能市「飯能市メガホン」(1962(昭和37)年5月15日(第273)号)に記載されているとおり「刈場坂峠」と表記していた。当方の調査した範囲では「苅場坂峠」を初めて用いたのは飯能市「広報はんのう」(1968(昭和43)年6月1日(第411)号)であり、この号での表記は埼玉県林業担当部局の影響が極めて強いものと言える。

それ以降に関しては、埼玉県の林業担当部局との関係から飯能市の林業担当部局等では「苅場坂峠」を使用している(飯能市「奥武蔵林道開設促進期成同盟会資料」(1967(昭和42)年~)参照。)。それらの影響もあってか飯能市行政では「苅場坂峠化」の流れが進んではいるものの、気を許すと「刈場坂峠」と表記してしまう程度の扱いである。また、市当局の複数の部署に「苅場坂峠」の読みを伺っても回答に苦慮してしまうのが本当のところだと思う。

 

(5)ときがわ町行政及び国土地理院

旧都幾川村行政では、旧都幾川村「昭和35年度調整 基本計画書」(1960(昭和35)年)からも分るように「刈場坂(かばさか)」と呼んでいた一方で、その頃からか「刈場坂峠」とも呼ぶようになった。その後、「飯能市史資料編11地名・姓氏」の影響を受けてか「刈場坂峠(かりばさかとうげ)」と公式に表記するようになっている。しかし、飯能市と異なるところは、奥武蔵林道開設促進期成同盟会の構成団体ではあったものの、基本的に「刈場坂峠」と表記し続けている点である。

また、国土地理院における表記や呼び名は、旧都幾川村の考え方によっているものと思われる。

 

(6)結論

以上のことから、「刈場坂峠」は小字「苅場坂」とは別に、昭和初期に武蔵野電車により創られた峠名であり、当初の表記は「刈場坂峠」、主な呼び方は「かばさかとうげ」であった。その後、林道苅場坂線の開通に合わせて埼玉県の林業担当部局の「苅場坂峠」の表記が始まり、各方面に影響を与えながら小字「苅場坂」との混同が顕著となって、呼び方においても「かりばざかとうげ」「かりばさかとうげ」等が出現したものと思われる。

 

5 謝辞

このシリーズを終えるにあたり、レファレンスでお世話になった埼玉県立浦和図書館の皆様、現在もいろいろな調査をされている飯能市郷土館の皆様、曖昧な表現が続いたにもかかわらず最後までお付き合いいただいた当ブログの読者の皆様にお礼を申し上げたい。

これで、この短歌を自信をもって読むことができる。
(坂倉登喜子1938(昭和13)年)
   刈場坂登りつめれば山小屋に晝餉の煙立ち昇る見ゆ

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このシリーズの結論に至ったので、カテゴリー「刈場坂(苅場坂)峠」内の記事を一部修正させていただいた。

奥武蔵スキー場の第1ヒュッテの位置については確認中である。確認が終了次第追記したい。また、古文書等で新たな成果があった場合にも追記したい。

2010/07/24

刈場坂(苅場坂)峠その21

※ このカテゴリー「211刈場坂(苅場坂)峠」内の記事は、峠の表記方法や呼び方を探訪する目的で書かれています。それぞれに関連がありますので、一連の記事としてお読みいただければ幸いです。
なお、本編は22編の記事で構成されており、その目次はこちらです。

今回は国土地理院の地形図における刈場坂峠の表記を調べてみた。方法は国土地理院関東地方測量部での旧版地形図の閲覧である。閲覧は無料で申請書に記入してから自分でパソコンを操作して閲覧する方式である。コピー(謄本)が欲しい場合には@500円で最新版を除き作成してくれる。

当初は、コピーを郵送請求して確認しようかと思ったのだが、あまりの枚数の多さから経済的負担を考えて自ら出向くことにした。

調査結果は下表のとおりである。5万分の1地形図「秩父」で「刈場坂峠」の表記が最初に登場するのが昭和34年部分修正版(昭和36年8月30日発行)からである。地域の名称としての「刈場坂」の表記が最初に登場するのが昭和46年編集版(昭和47年12月28日発行・最初の2.5万図からの編集図)からである。

一方2.5万分の1地形図「正丸峠」では、最初に発行された昭和45年測量版(昭和47年5月30日発行)から、「刈場坂峠」及び「刈場坂」の表記が継続してなされている。

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下の地図は、「刈場坂峠」の表記が最初になされた5万分の1地形図「秩父」(昭和34年部分修正版(昭和36年8月30日発行))の一部である。面白いことには、「刈場坂峠」の位置が「七曲り峠」の位置に表記されていることである。担当の方に伺ったところでは、これは単なる誤りとのことで、次の版からは修正されていた。

その他で面白いことは、稜線上の植生が荒地記号となっており、その当時に至っても附近が「かやと」であったことが分かること、加えて、旧来の「秩父街道」、すなわち檥峠から刈場坂峠を経て七曲り峠から芦ヶ久保に下りる道が明記されていることである。

秩父街道については、これ以前の地図においても確認することができ、加えて、これ以前の地図においても檥峠や大野峠の名称を確認することができたので、檥峠や大野峠が稜線上の古くからの主要な峠であったことが分かる。裏返せば、刈場坂峠の名称が新しいものであるということである。

また、刈場坂の集落から沢をつめて刈場坂峠に至る道も記されており、この道を昭和7・8年頃に奥武蔵スキー場に向う人々が歩いたのだろうと思う。また、第1ヒュッテの位置もそこそこ想像がつく。

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下の図は、「刈場坂峠」の表記が最初に現在の位置になされた5万分の1地形図「秩父」(昭和42年補測調査版(昭和44年3月30日発行))の一部である。

この時点に至っても奥武蔵グリーンライン(奥武蔵林道)は表記されておらず、前版の地形図が発行されてから10年を経ないうちに、稜線上の植生が大きく変化していることが分かる。加えて、等高線の図化の技術が格段にアップしていることが分かる。

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以上が主な調査結果である。「苅場坂」の表記は峠の名称としても地域の名称としても確認できなかった。また、現在も横瀬町内にある地名「苅米」の表記は、5万分の1地形図「秩父」の初版(実際の名称は「秩父大宮」)である明治40年測量版から継続して確認することができたので、用字云々(例:活字がない等)の問題ではないことも確かである。また、読みについては担当の方に伺ったところ、読みが確認できるのはデジタル化以降のものであって、この時代の地形図上の地名等の読みについては、国土地理院に資料として保存されていない(閲覧することができない?)とのことであった。

今回の調査結果から、数々の資料で見てきたとおり、「刈場坂峠」は古くからある峠名ではなく、かつて別の記事で引用した昭和35年の「都幾川村基本計画書」の記載からもわかるように昭和35年頃に一般に認知されるようになった呼び名ということで良いのであろう。

これにて、オマケ調査を除き、刈場坂峠の表記や呼び方に関する調査は終了である。後は考察というか、まとめというか、結論を記すのみである。

2010/07/19

刈場坂(苅場坂)峠その20

※ このカテゴリー「211刈場坂(苅場坂)峠」内の記事は、峠の表記方法や呼び方を探訪する目的で書かれています。それぞれに関連がありますので、一連の記事としてお読みいただければ幸いです。
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あんまり峠の表記方法や呼び方には関係ないかもしれないが、刈場坂峠の山バッジである。表記は見てのとおり「刈場坂峠」である。

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フルヤ(古谷)徽章製。デザインはコレクターの方のホームページを参照させていただくと「三頭山」のものに似ている。「ヤマケイJOY2000年冬号」に山バッジの特集があったようであるが、当方はその次号の記事で山バッジの特集があったことを知ったのだが残念ながら読んでいない。山バッジ展が開催されていたりして、山バッジには確固とした世界があるようである。

2010/07/17

刈場坂(苅場坂)峠その19

※ このカテゴリー「211刈場坂(苅場坂)峠」内の記事は、峠の表記方法や呼び方を探訪する目的で書かれています。それぞれに関連がありますので、一連の記事としてお読みいただければ幸いです。
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今日は、飯能市の行政で「刈場坂峠」が何と呼ばれて来たか?に関する調査の続きである。

調査資料は、飯能市の広報紙である「飯能市メガホン」である。市制施行前は当然に「飯能町メガホン」であり、その当時は旧吾野村を合併する前なので、「刈場坂峠」は町域に含まれていない。

「飯能町メガホン」は昭和25年1月15日号が第1号である。昭和27年12月1日(第48)号及び昭和28年12月10日(第72・73合併)号には、奥武蔵駅伝のコース地図が掲載されている。下の写真は第72・73合併号のものである。

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興味深いのは、第一・第五中継所の位置もさりながら、左上の「奥武蔵高原」の表示である。「奥武蔵高原」が刈場坂峠周辺の限られた地域の呼称であったことを感じさせる。

昭和29年1月1日に飯能町は市制を施行し飯能市となった。その後の興味深い記事をいくつか引用する。

昭和29年6月1日(第84)号2頁に「自転車駅伝競走大会」の記事がある。記事によると、5月15日に第2回秩父宮杯争奪自転車駅伝競走大会が埼玉県、埼玉県教育委員会等の共催で開催され8チームが参加した。コースは、川口市鋳物会館前をスタートし、秩父、飯能、川越等を経て、浦和県庁前にゴールする272.17キロであり、その内秩父から飯能までは45.56キロで正丸峠を越える石ころが多いコースであったとの記載がある。

昭和31年1月15日(第122)号2頁に「奥武蔵駅伝競走 今年は一月廿九日と決定 NHKではラジオ放送も」の記事がある。記事によると、「前四回の奥武蔵駅伝の成果はNHKの認むる処となり今年の大会から第二放送で当日午後一時頃から駅伝の実況を全国に電波で送られることになった」との記載がある。

※1956(昭和31)年9月30日、飯能市は吾野村、東吾野村、原市場村を合併し、刈場坂峠が市域に含まれることになった。

昭和34年4月15日(第199)号2頁に「にぎわう吾野地方」の記事がある。記事の本文は「土曜、日曜は東京方面からのハイカーで正丸峠を中心とした奥武蔵の山山はいずこも大へんなにぎわいである。 上-吾野駅前でバスに乗る人人 下-吾野駅から急行始発」とのものである。

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昭和37年5月15日(第273)号1頁の記事に「ハイカーでにぎわう奥武蔵」という記事がある。写真には「【写真はハイカーでにぎわう正丸峠頂上】」との説明がある。

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本文は「(※昭和37年の)4月29日から5月8日まで、とび石の休日東京方面から電車や観光バス、自家用車などで押し寄せたハイカーが新緑につつまれた奥武蔵をおとづれ、正丸峠から伊豆ヶ岳や丸山、刈場坂峠、高山不動様へ登るもの、また、名栗川、高麗川の清流に糸をたれるもの、川原に毛布を敷き楽しい1日をすごす家族づれなどが、ゴールデンウイークを心ゆくまで楽しんでいた。(ママ)」とのものである。

ここで初めて、「刈場坂峠」が出てきた。かなりジロジロ見たのであるが、これ以外には「刈場坂峠(苅場坂峠)」を見つけることはできなかった。なお「苅生」については「苅生」と表示されていたので念のため。

以降、昭和38年12月15日(第311)号までを見て印象的な記事があったので記しておきたい。

昭和37年12月1日(第286)号2頁に「おばさんご苦労さん」という記事があった。内容は「南小学校に7年間も給食のパンを往復8キロメートルの山道を登校日には1日も休まず運び続けているおばさんを市長が表彰されました。(中略)モンペに白いかっぽう着地下タビ姿で、背負いハシゴにブリキカン3個にパンを入れた15キログラムを背負った○○さんを(後略)」との記事がある。なお、この方は別の記事でも紹介され昭和38年5月3日に栗原浩県知事から功労賞の表彰を受けたとの記載がある。吾野版の千日回峰行みたいな感じである。

調査結果は以上である。