211 刈場坂峠(苅場坂峠)

2014年11月 7日 (金)

刈場坂峠(苅場坂峠)その13

まとめ

刈場坂峠(苅場坂峠)について12編の記事を作成しながら調べてきました。ここでまとめに入りたいと思います。なお、この記事においては呼称については連濁しないものとして記しています。

江戸時代の刈場坂峠附近は入会地としての秣場であり、漢字表記は苅場と坂の複合語としての「苅場坂」で、呼称は『新編武蔵風土記稿』の「蒲阪」や「蒲坂」の表記から考えて「かばさか」であったと思われます。

明治時代になると土地台帳、登記簿及び公図などが整備され、字(あざ)としての「苅場坂」の存在や表記が明確となりました。

昭和初期になって、武蔵野鉄道は路線を吾野駅まで延伸し、従来外秩父と呼称されてきた区域の一部を奥武蔵(野)、刈場坂峠附近を奥武蔵高原、また奥武蔵高原スキー場の第一ヒュッテの所在地を「刈場坂峠」と名付けました。その呼称は昭和初期の山岳関係の書籍の記載から考えて「かばさかとうげ」であったと思われます。

その後も峠を挟んで南北の位置関係にある飯能市とときがわ町のそれぞれの地元では峠を付けずに「刈場坂(かばさか)」と呼称されることが続いていました。また、登山者やハイカーの間では「刈場坂峠(かばさかとうげ)」と呼称され続けており、国土地理院の地形図でも1961(昭和36)年発行分から新たに「刈場坂峠」の地名が表記されるようになりました。

その後、従来から飯能市の一部では「苅場坂峠」の表記があったものの、1968(昭和43)年5月の奥武蔵林道の竣工に伴って埼玉県の林業担当部局が行った「苅場坂峠」の表記を契機として、埼玉県、飯能市及び奥武蔵林道開設促進期成同盟会(飯能市、日高町、毛呂山町、越生町、都幾川村及び飯能市森林組合で組織した団体)の公文書や新聞等で「苅場坂峠」も使用されるようになりました。

一方、飯能市では市史編纂事業が進み1986(昭和61)年には「苅場坂(読みはカリバサカ 地元での呼称はカバサカ)」や「苅場坂峠」の記述を含む『飯能市史資料編11地名・姓氏』が出版されました。また、都幾川村においても2001(平成13)年には「刈場坂峠」に「かりばさかとうげ」のルビを付した『都幾川村史通史編』が出版されました。飯能市や都幾川村の「正史」に「かりばさか」と表記されたことは、「文字(複合語の場合は元の単語の区切り)に即してより厳密に、より厳格に・・・」の時代の雰囲気ともあいまって、その後の呼称の流れを決定づけたようにも思われます。

その後、飯能市においては平成4~5年頃から市勢要覧や小学校社会科副読本等において「苅場坂峠」と表記する傾向が強まりましたが、現在の市勢要覧においては「刈場坂峠」と表記しています。

以上のような経過により、現在では「刈場坂峠」と「苅場坂峠」の2つの表記と「かばさかとうげ」と「かりばさかとうげ」の2つの呼称が混在する結果となっています。

このカテゴリーの刈場坂峠(苅場坂峠)その1の「まえがき」のなかでも触れましたが、そもそも表記や呼称を統一すべきなのか、あるいは統一する必要が本当にあるのかどうかは分かりません。「日常生活に支障ないんだから、混在している今のままでいいんじゃん。そもそも地名ってそういうもんだし・・・」とかも思います。

ガチガチに地元での旧来からの用法を重んじて「峠」を付ける前の「苅場坂」の表記に戻すという考え方もあるかもしれませんが、「峠」を付けることが広く定着している今となっては現実離れしているとしか思えませんし、逆に「区域としての苅場坂」を示す用法がすたれてしまうような気もします。

一方従来どおり「峠」を付けることとする場合には、そもそも「刈場坂」に「峠」を付けたのは昭和初期の武蔵野鉄道であって、最初から「苅場坂」に「峠」を付けて「苅場坂峠」と表記していれば現在のように行政機関によって異なる表記がなされるような混乱は起こっていなかったと考えられますので、今後、入会地としての秣場が存在していた歴史をより明確に後世に伝える意味から、また正式な小字も「苅場坂」であることから、積極的に「苅場坂峠」と表記する案も住民、行政機関の共通理解が得られるのなら、それはそれで良いことのように思います。きっと、今から始めると「芦苅場」のように30年くらい経てば「苅場坂峠」への統一がほぼなされているかもしれませんが、今はネット社会なので意外と早い段階で統一されてしまうかもしれません。

とはいえ、そのような統一に向けての行政機関相互の動きができないのであれば、今までの経緯をいろいろと調べてみて、刈場坂峠の表記については昭和初期以来約80年間にわたって使い続けられている「刈場坂峠」が妥当であると思います。

呼称については、特別な事情がない限りできるだけ地元で受け継がれてきた呼称を尊重すべきと思います。また連濁するかしないかが明らかに混在している地名は、偶然かもしれませんが『飯能市史資料編11地名・姓氏』や『都幾川村史通史編』での呼称やルビのように連濁しないものとして取り扱うのが妥当のように思います。これらのことから呼称は「かばさかとうげ」が妥当であると思います。もっとも飯能市やときがわ町の行政で「かりばさかとうげ」と呼称されているらしい今となっては、やがてその方向に収束して行ってしまうのだろうとは思います。

最後に、2014(平成26)年11月7日現在、グーグルでのWeb検索ヒット数は「刈場坂峠」53,000件、「苅場坂峠」4,730件で「刈場坂峠」が約11倍多くなっています。
呼称は「かばさかとうげ」586件、「かばざかとうげ」98件、「かりばさかとうげ」657件、「かりばざかとうげ」84件で、連濁がないものとすれば「かばさかとうげ」684件、「かりばさかとうげ」741件で、地元での伝統的な呼称「かばさか」はすでに少数派となってしまっています。

以上で、カテゴリー刈場坂峠(苅場坂峠)の記事のまとめとしたいと思います。

2014年11月 6日 (木)

刈場坂峠(苅場坂峠)その12

国土地理院の地形図

国土地理院の地形図における刈場坂峠の表記について2010年7月に調べました。方法は国土地理院関東地方測量部での旧版地形図の閲覧です。閲覧は無料で申請書に記入してから自分でパソコンを操作して閲覧する方式であり、コピー(謄本)が欲しい場合には@500円(当時)で最新版を除き作成してくれました。

調査結果は下表のとおりです。5万分の1地形図「秩父」で刈場坂峠の表記が最初に登場するのが昭和34年部分修正版(昭和36年8月30日発行)です。地域の名称としての刈場坂の表記が最初に登場するのが昭和46年編集版(昭和47年12月28日発行・最初の2.5万図からの編集図)からとなります。

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一方2.5万分の1地形図「正丸峠」では、最初に発行された昭和45年測量版(昭和47年5月30日発行)から刈場坂峠及び刈場坂の表記が継続してなされています。

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下の地図は刈場坂峠の表記が最初になされた5万分の1地形図「秩父」(昭和34年部分修正版(昭和36年8月30日発行))の一部です。面白いことには、刈場坂峠の位置が「七曲り峠」の位置に表記されていることで、担当の方に伺ったところでは単なる誤りとのことで、次の版からは修正されています。

その他で面白いことは、稜線上の植生が荒地記号となっており、その当時に至っても附近が茅戸状態であったことが分かること、加えて、旧来の「秩父街道」、すなわちぶな峠から刈場坂峠を経て七曲り峠から芦ヶ久保に下りる道が明記されていることです。

秩父街道については、これ以前の地図においても確認することができ、加えて、これ以前の地図においてもぶな峠や大野峠の名称を確認することができたので、ぶな峠や大野峠が稜線上の古くからの主要な峠であったことが分かります。裏返せば、刈場坂峠の名称が新しいものであるということになります。

また、刈場坂の集落から沢をつめて刈場坂峠に至る道も記されており、この道を昭和9~11年頃に奥武蔵高原スキー場に向う人々が歩いたのだろうと思います。また、スキー場の第一ヒュッテの位置も想像がつきます。

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この地図は、国土地理院発行の5万分の1地形図(秩父)を使用したものである。

下の図は、「刈場坂峠」の表記が最初に現在の位置になされた5万分の1地形図「秩父」(昭和42年補測調査版(昭和44年3月30日発行))の一部です。

この時点に至っても奥武蔵林道(奥武蔵グリーンライン)は表記されておらず、前版の地形図が発行されてから10年を経ないうちに、稜線上の植生が大きく変化していることが分かります。加えて、等高線の図化の技術が格段にアップしていることも見て取れます。

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この地図は、国土地理院発行の5万分の1地形図(秩父)を使用したものである。

以上が主な調査結果です。苅場坂の表記は峠の名称としても地域の名称としても確認できませんでした。また、現在も横瀬町内にある地名「苅米」の表記は、5万分の1地形図「秩父」の初版(実際の名称は「秩父大宮」)である明治40年測量版から継続して確認することができましたので、活字がない等の問題ではないことも確かです。また、読みについては担当の方に伺ったところ、読みが確認できるのはデジタル化以降のものであって、この時代の地形図上の地名等の読みについては、国土地理院に資料として保存されていないとのことでした。

今回の調査結果から、数々の資料で見てきたとおり、刈場坂峠は古くからある峠名ではなく、前の記事で引用した都幾川村『昭和35年度調整 基本計画書』(1960)の記載からもわかるように昭和35年頃に一般に認知されるようになった呼び名ということで良いのだと思います。

刈場坂峠(苅場坂峠)その11

ときがわ町の資料

刈場坂峠はときがわ町でどう呼ばれて来たかを調べてみました。『新編武蔵風土記稿』や『武蔵国郡村誌』の秩父郡大野村の部分では刈場坂峠に直接つながる記述を見つけることはできませんでした。また、昭和初期の文献についても探すことはできませんでした。

都幾川村『昭和35年度調整 基本計画書』(1960・28頁)には第11章観光施設事業計画として「本村は(中略)天文台建設地の堂平山、大野峠、刈場坂峠といわゆる奥武蔵高原の山岳地帯と(後略)」と記されており、刈場坂峠の呼び名は認知されていたことになりますが、「いわゆる奥武蔵高原」という表現は面白いです。
具体策の項目を読むと(引用開始)(3)堂平山、大野峠、刈場坂施設計画 堂平山は天文台建設に伴い、天文台道路が設置され観光道路として約される。山頂に無料休憩所及び有料簡易宿泊所を建設する計画については、全面的にこれに協力し実現をはかりこの維持管理は村がこれに当るものとする。大野峠、刈場坂附近については、登山道を改修し、指導標を作り山頂には天望台(ママ)を構築し又、便所、腰掛等の施設をなす(引用終了)と記してあります。
つまり、刈場坂とか刈場坂附近などの表現から分かるように、当時の都幾川村行政の内部においては刈場坂峠よりも刈場坂の方が一般的に用いられていた感じがします。

続いて、広報ときがわの1970(昭和45)年4月の記事です。(引用開始)奥武蔵林道がぶな(木偏に義)峠まで延長 外秩父(白石峠-高篠峠-大野峠-刈場坂峠)の山々を走るスカイラインは、すでに皆さんにおなじみの奥武蔵林道ですが、現在この道は白石峠から刈場坂峠を経て正丸峠へと通じでおります。(後略)(引用終了)と記されています。この記事からも分かるように都幾川村においては埼玉県の林道苅場坂線開通以後においても、飯能市と異なり奥武蔵林道開設促進期成同盟会の構成団体ではあったものの、基本的に刈場坂峠と表記し続けています。

次に、都幾川村『都幾川村史通史編』(2001)を見てみます。この本の中では刈場坂峠に「かりばさかとうげ」のルビが付される事態が頻発(一例:836頁)しています。飯能市『飯能市史資料編11地名・姓氏』(1986)において苅場坂の公式の読みが「かりばさか」とされたことと無縁ではないようにも思いますが、都幾川村役場の歴史を知る方に聞いてみたい気持ちで一杯です。当方が地元の方に聞き取り調査をした限りでは、戦前から呼び名は「刈場坂(かばさか)」や「スキー場」に限られています。確かに一般的に刈場坂を示せば「かりばのさか」の意味から「かりばさか」と読むのが自然ではあるとは思います。

以上の調査に加え、土地台帳、登記簿及び公図等の調査を総合すると、ときがわ町に刈場坂や苅場坂の地名はないものの、稜線南側の北川村等での呼称を考えると、「苅場坂(かばさか)」という呼び名は江戸時代から使われていたものと思われます。昭和初期の武蔵野鉄道の奥武蔵高原や刈場坂峠の命名と同時に、ときがわ町内にはスキー場が立地していたこともあって、同時にそれらの呼称が持ち込まれたものと思われますが、現在の刈場坂地内やときがわ町地内の高齢者がそうであるように、都幾川村役場内部では1960(昭和35)年に至っても単に刈場坂の表現が使われていたことは計画書などから明らかです。その後については都幾川村史における「かりばさかとうげ」の表現などはありますが、飯能市とは異なり刈場坂峠の漢字表記を一貫して継続しています。

最後に、刈場坂峠にある「刈場坂峠の標」の写真です。この峠の標を管理しているのはときがわ町で、2013(平成25)年に行われた修繕もときがわ町が行い、写真は修繕後のものです。

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2014年11月 5日 (水)

刈場坂峠(苅場坂峠)その10

飯能市市勢要覧等

飯能市立図書館で閲覧できる「市勢要覧」と「社会科副読本」の全部を2010(平成22)年6月に調べてみました。数ある行政資料の中で「市勢要覧」と「社会科副読本」を選んだ理由は、経年変化が把握できる可能性があることと掲載してある地図の作成が自前のことが多く地名へのこだわりが読み取れる可能性があるからです。他の計画書等の地図は国土地理院の2.5万図や市発行の国土基本図がそのままコピーされて使用されることが多いように思います。

閲覧結果は下の表のとおりです。空欄は資料が発行されなかったか、あるいは図書館に保存されていないもの、「-」は資料はあるが記載がないもので、「刈」は刈場坂峠、「苅」は苅場坂峠を示します。社会科副読本2は「住みよいくらし」という題名のものです。

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時間をかけた割には資料数が少ないのですが、どんなに遅くとも飯能市においては平成4~5年頃に「苅場坂峠化」の流れが始まったように思われます。編纂が進んでいた飯能市史では昭和61年発行の『飯能市史資料編11地名・姓氏』のなかで苅場坂峠としていますし、昭和63年発行の『埼玉県行政史第4巻』などに代表される苅場坂峠の表記が徐々に一般にも浸透してきた頃なのではないかと思います。

ちょっと脱線しますが、昭和35年の社会科副読本はすごいと思いました。まずは表紙。題字が飯能市を代表する書家である大野篁軒先生の筆になるもので最初から圧倒されます。内容も充実しており、大字「あしかりば」の表記を唯一「芦苅場」としている優れものです。残念ながら刈場坂峠に関する記載はありませんでしたが、飯能市及び名栗村の範囲を、奥武蔵高原あるいは外秩父の南部と記しており、奥武蔵に高原が付くことと、飯能市や名栗村の山間部も外秩父であるとの明快な認識に驚きました。

話を戻して、市勢要覧の平成22年版は当時図書館のカウンターに閲覧用として置いてあったのですが刈場坂峠と記されており、また、現在飯能市のHPで閲覧できる市勢要覧は平成24年度版(平成24年12月発行)のもので、やはり刈場坂峠となっています。平成4~5年ごろから続いていた飯能市での「苅場坂峠化」の流れが一気に弱まったように思えます。

これに関連して飯能市立図書館の文化新聞閲覧システムを使って文化新聞の記事を検索していて非常に興味深い記事を見つけました。
1981(昭和56)年3月18日号「論議呼ぶか くさかんむり 登記簿には芦苅場 慣習的には芦刈場」という記事で、飯能市の行政では、大字である「苅生」は「刈生」とせず「苅生」と表記しているが、同じく大字である「芦苅場」は「芦刈場」と表記してきている。昭和53年頃から住民基本台帳担当部局が登記にならって新しく作成する書類は「芦苅場」としてきていることが書かれており、(引用開始)広報係では「今後の書類は”苅”に統一していく」と断言しているが、当事者である住民が、二十年来の馴染みの表示からスンナリ乗り換えるかどうは多少の疑問を抱くところ(引用終了)と結ばれています。それから33年6か月を経た2014(平成26)年11月4日現在のグーグルでのWeb検索ヒット数は「飯能市 ”芦苅場”」が32,300件、「飯能市 ”芦刈場”」が991件で圧倒的に「芦苅場」が多くなっています。

芦苅場の事例は苅場坂と刈場坂の関係に良く似た事例です。現在のネット上での芦苅場の定着状況を見ると歳月の重さを感じずにはいられません。一方、芦苅場と苅場坂のケースを比較してみると、当時と今では社会情勢が大きく異なっていることや直接に関係する住民の数に加え、住所や土地の表示として日常的に使う大字(芦苅場)と、通常は表示されることが少ない小字(苅場坂)では生活への密着度が全く違うなどの差があるのだろうと思います。加えて刈場坂峠は昔からの地名ではなく昭和初期に武蔵野鉄道によって作られた地名であり、登記に使われる地名でもありません。刈場坂峠の「苅場坂峠化」を考えるとすれば、行政上の必要性、刈場坂峠の呼称の成立過程、刈場坂峠の社会全般への浸透度、地元の考え方、刈場坂峠が2市町の境界に所在していることなどを総合的に考えなければならないのだろうと思います。

※ 2015(平成27)年5月25日追記
先日芦苅場の「芦刈場自治会館」の看板をみる機会がありました。いろいろと地元の方にお話を伺ってみると、現在でも地元では芦刈場も日常的に用いられているとのことでした。

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--------------------追記終了

ところで、実際の整備は都市再生機構が行ったもののようですが飯能市の都市公園「あさひ山展望公園」の日時計を取り巻く通路に展望方向を矢印で示す石標が設置されています。下の写真はその内のひとつ「刈場坂峠」です。整備の経緯はともかくも近年になって飯能市の都市公園の中にできた石に刻まれた刈場坂峠の文字とその方向を示す矢印です。

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最後に、刈場坂峠関係の調査では飯能市立図書館を始め飯能市役所の皆様に大変にお世話になったのですが、2010(平成22)年7月5日に飯能市郷土館に刈場坂峠の表記と呼称について問い合わせたところ、約2か月を経て丁寧な回答をいただいています。回答としては、近現代に関しては当方調査済みの史料以外に参考となる史料がないようで、同館所蔵(寄託)の古文書(検地帳等)を確認した結果、苅場坂峠(刈場坂峠)等の記載を確認できなかったとの内容でした。学芸員の方にはお忙しい中にもかかわらず時間を割いていただきありがとうございました。

刈場坂峠(苅場坂峠)その9

飯能市広報紙・文化新聞

飯能市は管内の地名に関する権限を持つ行政機関であること、市内に苅場坂という小字があること、かつて公文書等で苅場坂峠を使用する頻度が埼玉県の林業担当部局と並んで高かったこと等の理由により、飯能市の広報紙、市勢要覧、社会科副読本で刈場坂峠の呼称の変遷を調べてみました。また地元紙である文化新聞の記事も検索してみました。

まずは飯能市立図書館に保存されている飯能市の広報紙の中で「刈場坂峠が何と呼ばれてきたか」に関する調査結果です。飯能市立図書館に保管されている1971(昭和46)年分までの全部に目を通してみました。長い期間の広報紙が保存され閲覧できること自体ありがたいことなのですが、根気のいる作業で加えて見落としもありそうで、電子書籍化されたときには、より確実に検索できると思います。

飯能町の広報紙である「飯能町メガホン」は1950(昭和25)年1月15日(第1)号が発行されました。その当時は吾野村を合併する前なので刈場坂峠は町域に含まれていません。
1954(昭和29)年1月1日に飯能町は市制を施行し、広報紙も「飯能市メガホン」となり、昭和39年4月30日(第318)号まで発行されました。発行所は「飯能市報道委員会(市役所内)」となっています。
1956(昭和31)年9月30日、飯能市は吾野村、東吾野村、原市場村を合併し、刈場坂峠が市域に含まれることになりました。
1964(昭和39)年5月15日(第319)号から「飯能市メガホン」は「広報はんのう」となっています。

刈場坂峠に関する記事で当方が発見できたものは以下のものですが、残念ながらルビが付されている記事はありませんでした。

1962(昭和37)年5月15日(第273)号1頁の記事に「ハイカーでにぎわう奥武蔵」という記事があります。「(※昭和37年の)4月29日から5月8日まで、とび石の休日東京方面から電車や観光バス、自家用車などで押し寄せたハイカーが新緑につつまれた奥武蔵をおとづれ、正丸峠から伊豆ヶ岳や丸山、刈場坂峠、高山不動様へ登るもの、また、名栗川、高麗川の清流に糸をたれるもの、川原に毛布を敷き楽しい1日をすごす家族づれなどが、ゴールデンウイークを心ゆくまで楽しんでいた。(ママ)」とのものです。ここで初めて刈場坂峠が出てきました。

1968(昭和43)年6月1日(第411)号には、「奥武蔵林道完成 森林資源と観光の開発に期待」という記事が掲載されており、写真はなく全文は次のとおりです。
(引用開始)四十年から工事をはじめていた奥武蔵林道が、このほど完成し、苅場坂峠で県知事ら関係者が出席して、竣工式が行なわれました。この林道は、県が約二億五千万円をかけて完成したもので、子の神戸を起点として、苅場坂峠、大野峠を経て、秩父の定峰峠に至る、延長十七キロメートルのながめの良い基幹林道です。この林道完成によって、林業経営の近代化は、もとより今までねむっていた、ばく大な森林資源の開発に、また自然公園の観光開発に大きな役割りを果たすことが期待されます。(引用終了)
この記事の作成にあたっては埼玉県の林業担当部局の作成した資料等が参考となっているものと思われます。

1969年(昭和44)年1月1日(第425)号には、「市政一年のあゆみ」と題する写真記事の一つに「奥武蔵林道完成 この林道は、子の神戸を起点として苅場坂峠、大野峠を経て秩父の定峰峠にいたる延長約17キロのながめのよい基幹林道です。」と紹介されています。

1969(昭和44)年10月1日(第442)号には、「奥武蔵グリーンライン 第二期工事に着手」という記事が、工事の様子を写した写真入りで掲載されています。記事の一部は次のとおりです。
(引用開始)西川林業地帯の中核である奥武蔵高原を貫通する大型林道として夢のグリーンラインと呼ばれる県営の大型林道がこのほど第二期工事に着手されました。この林道は、苅場坂峠を起点として、ぶな峠、飯盛峠、高山、傘杉峠、顔振峠を経て風影林道に通じるもので、昭和四十四年度から昭和四十七年度まで四か年計画で実施されるものです(ママ・後略)(引用終了)

その後の広報紙については、1号あたりの頁数も増えてさすがに根気も切れてきましたのでポイントを絞って閲覧しました。

1974(昭和49)年7月1日(第551)号7頁には写真ニュースとして「奥武蔵林道のしゅん工式 林道奥武蔵線第二期工事しゅん工式は、5月30日、刈場坂峠で行われました。開通にあたって、畑知事、市川市長、工事施工業者がテープカットし、しゅん工を祝いました。」の記事とともにテープカットの写真が掲載されています。

まとめてみると「広報はんのう」に刈場坂峠が登場するのは奥武蔵林道関係の記事が多く一つを除いて苅場坂峠と表記しています。県営苅場坂線以降の奥武蔵林道開通に関しては埼玉新聞も苅場坂峠と表記して記事を書いていますので、「広報はんのう」を含めて埼玉県の林業担当部局の作成した資料等の影響を感じます。

続いて文化新聞の記事です。文化新聞については飯能市周辺の記事が多く飯能市立図書館文化新聞閲覧システムで見出しを検索することができます。検索した結果は次のとおりです。
1957(昭和32)年4月5日号には「苅場坂峠で山林焼く」との記事があり、奥武蔵林道の苅場坂線開通以前に飯能市内において苅場坂峠の表記があったことが分かり非常に驚きました。
1959(昭和34)年4月18日号には「刈場坂峠へ集中登山 奥武蔵ワンダーフォーゲル」という記事がありました。
1968(昭和43)年5月3日号には「十日かば坂で完工祝賀式 開けた奥武蔵林道 第二期工事も近く着工」との記事があり、本文を読むと連濁せず「かばさかとうげ」と記されています。

2014年11月 4日 (火)

刈場坂峠(苅場坂峠)その8

奥武蔵林道

刈場坂峠を語る上で、奥武蔵高原スキー場の開場と奥武蔵林道(奥武蔵グリーンライン)の開設を避けて通ることはできません。なぜなら奥武蔵高原スキー場は刈場坂峠という地名を生み出しましたし、奥武蔵林道は苅場坂峠という表記を世に広めたからです。

埼玉県は1963(昭和38)年に観光開発道路として奥武蔵グリーンラインコースを計画しました。この計画の内容は埼玉県『埼玉県総合振興計画』(1963)に詳しく記されていますが、基本的に飯能と秩父を結ぶ国道299号線(歴史的な意味での吾野道)の枝線的観光開発道路を作る計画で、第1次計画(計画年度は1962(昭和37)年度から1970(昭和45)年度)では「正丸峠-刈場坂峠-大野峠-丸山-堂平山-定峰峠 総延長20km 幅員4.5m」を整備することとしていました。

当時の路線図を見ますと、第1次計画には、林道苅場坂線、林道奥武蔵1号線、林道奈田良線、大野峠から丸山までの丸山林道の一部、白石峠から堂平山に向かう林道堂平山線、白石峠から大野に至る県道大野東松山(172号)線の一部が含まれています。

この計画によって埼玉県の奥武蔵林道の開設が進められましたが、その経緯については埼玉県『埼玉県行政史第4巻』(1988)に詳しく記されています。第1章 高度成長と開発行政の本格化 第3節 高度成長と農政の転換の中に「奥武蔵林道の開通」の項があり、(引用開始)本県の大規模な多目的林道としては、奥武蔵林道の開設があるが、この林道の第1期工事は昭和40年度に着工し、42年度に竣工したもので、飯能市の子の神戸(国道299号線)を起点として苅場坂峠、大野峠(標高853メートル)、白石峠を経て定峰峠に至る延長14キロメートル、総工事費2億4,000万円であった。このうち、昭和41年度分の延長1.8キロメートルは、農林漁業揮発油税の身替り措置として昭和40年度に創設された略称「農免林道」である。これは峠を越えて他の林道と接続することができることから峰越林道ともいわれた。奥武蔵林道は、これまでこの地域に開設された各路線を結ぶことによって、林業生産団地の広域化、集団化、組織化による生産性の向上を図り、併せて森林レクリエーション機能の効果も発揮させようとするものであった。これは昭和48年度に国が定めた広域基幹林道に先駆けて実施したもので画期的な林道であった。なお、第2期工事は、昭和44年度から46年度に苅場坂峠から顔振峠まで延長13キロメートルを開設し、さらに、第3期工事は46年度から着工した。(引用終了)と記されています。

当方が図書館で閲覧した資料※から奥武蔵林道開設の経緯をまとめると次のようになります。

昭和38~40年度施工 奈田良線(定峰峠~白石峠) 2,740m
昭和40~42年度施工 苅場坂線(子の神戸~刈場坂峠)5,620m
昭和41~42年度施工 奥武蔵1号線(白石峠~刈場坂峠) 5,424m
昭和42年度施工 奥武蔵支線(刈場坂峠附近~舟の沢) 1,270m
昭和43年5月10日 奥武蔵林道竣工式(刈場坂峠 栗原浩知事出席)
昭和44~46年度施工 奥武蔵2号線(風影~刈場坂峠) 11,768m
昭和46~不詳年度施工 権現堂線(中野線分岐~風影) 8,081m
昭和49年5月30日 奥武蔵林道完工式(刈場坂峠 畑和知事出席)

このような経緯で奥武蔵林道は完成し、そのことを綴った『埼玉県行政史第4巻』でも苅場坂峠が用いられました。埼玉県の林業担当部局では林道開設、治山工事及び保安林の指定などで地名としての苅場坂を用いる機会は多くあったと思われ、その延長で苅場坂峠の表記がなされ、地元飯能市の行政や新聞報道などにも影響を与えたことは自然のことと思います。加えて地名の由来が入会地としての秣場であったことを考えれば苅場坂峠の表記が妥当ともいえますが、埼玉県の林業担当部局以外では刈場坂峠の表記が用いられているように思われます。

以下の写真は奥武蔵グリーンライン上に設置されている苅場坂峠を示す道路標識です。

八徳入線分岐です。

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高山不動尊入口です。

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大野峠(丸山林道側)です。

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大野峠(高篠峠側)です。こちらの標識は風であおられたのか少し上を向いた状態になっています。

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とはいえ埼玉県の林業担当部局が設置した案内板の類がすべて苅場坂峠というわけではなく、飯能林業事務所が設置した林道奥武蔵2号線の看板や、

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寄居林業事務所が設置した刈場坂峠のサインなどもあります。

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なお、ハイキング関係の指導標で「刈場坂峠」以外の表記を見かけたことはありません。唯一「苅場坂峠」の表記が含まれていたのは刈場坂峠附近の建物群のところにある「苅場坂峠いこいの里」の標柱です。

※ 2015(平成27)年5月11日追記 ツツジ山南方の尾根上等に飯能市の設置した「苅場坂峠」と記された指導標が3か所あることが分かりました。当方の探訪記事はこちら

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----------追記終了

※ 埼玉県『埼玉県行政史第4巻』(1988)
埼玉県農林部森づくり課『森林・林業と統計 平成20年度版』(2008)
寄居林業事務所『寄居林業事務所30年のあゆみ』(1987)

刈場坂峠(苅場坂峠)その7

或る峠の物語

大畠達司編・著『或る峠の物語 -奥武蔵・刈場坂峠-』(1998)を改めて読んでみました。和装、電子複写、48頁の本です。下の写真は当方が著者から頂いた本の写真です。本には「編・著」と表記されていますが、図書館学的には「著」という感じです。しかし、「編」と「著」の間の「・」に、「みんなの言葉が集まってできた本だぞ!」という著者の思いが感じられるような気がします。

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内容的には山岳図書や定期刊行物等の引用をしながらの個人的な回想も多く、読んでいて非常に面白い本です。本の中に刈場坂峠の名称の由来に関する記述はありませんが、漢字表記は刈場坂峠で統一され、読みについても「カバサカ」と明記してあります。昭和初期のスキーやハイキングを通じて見た刈場坂峠周辺の様子や「奥武蔵高原スキー場」の様子が大変に良くわかる本です。

こちらは『或る峠の物語』に口絵として掲載されている奥武蔵第一ヒュッテのスケッチ(1946(昭和21)年4月18日・新井芳雄画)です。許可を得てスケッチに書名の文字を重ねて転載しました。この本の中で印象に残っているものに坂倉登喜子さんの短歌『奥武蔵の山と峠』に詠まれたという歌のひとつ「刈場坂登りつめれば山小屋に晝餉の煙立ち昇る見ゆ」がありますが、このスケッチの建物から昼食を準備するかまどの煙が上がっていたのかと思うと感慨深いものがあります。

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※ このスケッチの転載等をお断りします。

著者のお話では、スケッチの作者が伊豆ヶ岳方向を向いて画いたもので、建物手前には岩が、スケッチ右下には後述する歌碑が画かれています。まず、画かれている岩は下の写真の刈場坂峠の横見山登山道分岐附近にある1937(昭和12)年10月の建立の祠の附近にある岩とのことです。現地に行ってみると、この附近には平坦な部分があり確かに建物があったとしても不思議はありません。

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また、本にはこのスケッチの位置に現在も歌碑の台石が残っていると記されており、実際に確認してみると、今も「想い出の丘」と書かれた標柱の近くに残っています。

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台石の手前からスケッチしたのと同じ方向を向いて撮影したのが下の写真です。これで奥武蔵第一ヒュッテの位置が特定できました。

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奥武蔵第一ヒュッテの位置は、かつて1947(昭和22)年2月8日米軍撮影の空中写真(写真名:USA_M28_115の6倍部分引伸ばし写真)で鮮明には確認できなかったものの、四角形の人工物らしきもの(下の写真の中央付近)を確認していましたので、この辺りではないかと思っていたのですが確信は持てていませんでした。これですっきりしました。

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国土地理院の空中写真(1947年米軍撮影)

また、この歌碑には一時行方不明となり、林道工事中に発見され、工事関係者等により新たに台座が作製され、「刈場坂峠の標」脇の現在地に移設して設置されたという経緯があります。

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なお、この歌碑は、妻が亡き夫を偲んで1938(昭和13)年に建立したもので「暁の光の海に霧はれて遠山波乃湧き立つみゆ」という歌が刻んであります。

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続いて昭和初期の山岳図書の刈場坂峠に関する表記について触れておきたいと思います。

小林玻璃三等『奥武蔵 山と渓のハイキング』(1939・博山房)

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上の写真は当方が古書店で購入した本の写真です。この本はハイキングコース等により複数の方が分担して執筆されており、坂倉登喜子さん執筆部分での峠名は刈場坂峠で統一されており、読みについては、「かばさかとうげ」と「かばざかとうげ」の両方のルビが確認できました。(引用開始)静かな山里の間を幾つかの小橋を渡って、画材になりさうな水車小屋風景を見送って進んで行くと、地図に鳥居のある所、石段の上に小祠(山の神)があり、(中略)ジグザグに尚も林間を登って行くと、峠橋と記された高麗川の源流に達する。(中略)最後の登りを一息に登れば間もなく樹間に第一ヒュッテを見上げることが出来る。(中略)峠に達した時、其処の瀟洒な第一ヒュッテ(一泊三〇銭)から、紫色の煙が大空にゆらゆらと昇ってゐるのを見れば(後略)(引用終了)と書かれており、先ほど引用した短歌の情景がより鮮明に想像できます。また下の写真はこの文に記されている刈場坂の集落の麓にある石段と社です。参道の階段の脇には稲荷社がありますが「大正九年二月建立」との記載があり、坂倉登喜子さんもこの階段を登ったかもしれません。

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岩根常太郎氏執筆部分では「吾野駅からバスで子ノ神戸・高原下に到り、それからあの気持良い林間の径を刈場坂のヒュッテに向ふ。刈場坂の登り口で顧る空に浮ぶ伊豆ヶ嶽は何時見てもなつかしい山の姿である。(ルビなし)」と書かれていますので、この当時、地元の方だけではなくハイカーの間でも、先ほどの坂倉登喜子さんの短歌もそうですが、峠を付けずに単に刈場坂と呼ぶことがあったことが分かります。

春日俊吉『奥武蔵の山と丘陵(改訂増補版)』(1941・朋文堂)
著者は山岳やハイキングの世界では高名な方なのだろうと思われますが、この本の中では峠名は刈場坂峠であり「かばざか」のルビが確認できました。
加えてこの本には、別の項に面白い記述があり、正丸峠から日和田山までタイム競争をして19歳の男性が勝ったということが書いてありました。戦前からトレラン(トレイル競歩?)をしていたみたいです。日本におけるトレランの元祖?かもしれない感じがします。

最後に山バッジの写真を掲載しておきます。当方が行った聞き取り調査では、かつて刈場坂峠には「りんどう茶屋」「刈場坂峠茶屋」「名称不詳」の3軒の茶屋があったとのことで、下の写真の刈場坂峠の山バッジはフルヤ(古谷)徽章製です。

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2014年11月 3日 (月)

刈場坂峠(苅場坂峠)その6

奥武蔵高原スキー場

神山弘・新井良輔『増補ものがたり奥武蔵 伝説探訪二人旅』(1984・金曜堂出版部・182頁)には、昭和初期の武蔵野鉄道の刈場坂峠(実際には秩父郡大椚村大野等の秣場)における「奥武蔵高原スキー場」の開設について「今まで外秩父と総称されていたこの峠道一体を奥武蔵高原と名付け、無名の草刈場の入会地を、草刈場へ登る坂の意味から刈場坂峠と呼ばせ(以下略)」と記しています。苅場坂の地名は古くからあり無名の草刈場ではなかったはずですが、少なくとも武蔵野鉄道が刈場坂峠附近を奥武蔵高原と命名し、刈場坂に峠を付けたのは確実なことのようです。なお、この本の中での峠名は刈場坂峠で統一されており、読みについては、「かばさかとうげ」と「かばざかとうげ」の両方のルビが確認できました。

大野鉄人原作『説経浄瑠璃節原本 武蔵野史談吾野観音霊験記』(1934(昭和9)年8月6日発行)の附録「吾野線沿線案内」についてです。

(引用開始)奥武蔵スキー場(ママ)
現在武蔵野バス終点より一里を算するもバス延長の上は十五丁或は十丁なるべし。
秩父郡大椚村仝高篠村仝芦ヶ久保村に接続せる大高原に有り。季節を待って開場す。武蔵野鉄道会社の建設せる家屋は山岳探見者山岳旅行者に克く便を与ふ。附近陣馬ヶ窪は山頂の大平原なり。此地に伝説あり。掻抓えて述べよう。元来伝説其儘なれば他の各記事と御混読御無用に希う。(後略)
奥武蔵の峰入(尾根縦走) 山岳旅行初歩都人士の足馴し
子の山を過ぎ天目指峠を経伊豆ヶ岳に至り是より北に向って大蔵山正丸峠を過ぎて苅場坂上奥武蔵スキー場に着くべし。更に転じて東に向い(後略)
※宿泊先として挙げられている場所:子の山、高山不動、奥武蔵スキー場(引用終了)

興味深いのは、1934(昭和9)年夏の時点で奥武蔵高原スキー場は存在しており、かつ登山者の宿泊先として紹介できるヒュッテが刈場坂峠にあったということです。大畠達司編・著『或る峠の物語 -奥武蔵・刈場坂峠-』(1998)の記述を見ても「刈場坂峠のスキー場は、昭和九年の劈頭日帰りスキー場として開場したものである」との記述があります。武蔵野鉄道が吾野駅まで通じたのが1929(昭和4)年9月10日ですので、わずかな期間の中で奥武蔵※という言葉が使われだしたことも分かります。また「秩父郡大椚村仝高篠村仝芦ヶ久保村に接続せる大高原に有り」も面白く、奥武蔵高原という言葉を使っていません。また高篠村の表記からスキー場が刈場坂峠だけではなく、現在の丸山に第3ゲレンデがあったことを示しています。加えて「奥武蔵の峰入」の文の中で「苅場坂上奥武蔵スキー場に着くべし」と書いてありますので、奥武蔵高原スキー場の位置を示す言葉として刈場坂峠が使われておらず、刈場坂の表記が苅場坂であることに注目したいと思います。

奥武蔵高原スキー場のパンフレットです。写真をクリックすると拡大します。参考までに「第一ゲレンデ」、「奥武蔵ヒュッテNO1」、「奥武蔵ヒュッテNO2」の記載を転載しておきます。
「第一ゲレンデ」
刈場坂峠の頂上の一号ヒュッテのある山稜から北へ流れた約十万坪の大スロープで上部は稍急ですが中部以下は緩やかで初歩の方にも専門の方にも向く変化の多いゲレンデです。スロープの最下端に十余坪の二号ヒュッテがあります。
「奥武蔵ヒュッテNO1」
刈場坂峠の丁字路にあり。案内所、食堂、売店、携帯品一時預り、貸スキー、スキー保管預り、風呂、暖房の設備あり。収容人員五〇人。宿泊料三〇銭(食事は別)朝食一五銭、昼夕食二〇銭。」などと記載されています。
「奥武蔵ヒュッテNO2」
第一ゲレンデの最下端にあり。食堂、売店、携帯品一時預り、風呂、暖房の設備あり。収容人員二五人。宿泊料三〇銭(食事は別)朝食一五銭、昼夕食二〇銭。

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最後に広報ときがわの1998(平成10)年3月号に掲載されている「村史編さんだより96」を紹介します。この号には奥武蔵高原スキー場のことが書かれていて、現在もこのスキー場で使われたスキー板が残っていることなども書かれており、(引用開始)当時、刈場坂峠には旗が上がっているとんがり屋根の小屋があり、管理人夫婦がいてキャンプする人などを泊めていたということです。この場所から曲がりくねった坂を下るとスキー場(約一五〇メートル)、その下に小屋があり、スキー場の幅は余りなく、コースの左側には岩石が出ていたと言います。下にあった小屋は三十人ぐらいの人が入れる食堂があり、カレーライスなどが食べられたそうです。(中略)昭和十一年(二・二六事件の年)二月五日、県内は三十八年ぶりの大雪に見舞われ、奥武蔵スキー場には積雪が五十五センチ(後略)(引用終了)などと書かれています。

なお、2012(平成24)年9月22日から11月11日までの開催された東京都練馬区立石神井公園ふるさと文化館の特別展「鉄道の開通と小さな旅 西武・東上沿線の観光」を観覧したときに奥武蔵高原スキー場をめぐる史料は探せば数多くありそうな印象を持ちました。

※特別展『鉄道の開通と小さな旅 西武・東上沿線の観光』の図録に掲載されたパンフレットには「奥武蔵野」と記しているものもあります。

刈場坂峠(苅場坂峠)その5

入会地・秣場

刈場坂峠とその周辺はかつて入会地としての秣場等(草刈場・茅戸・茅(萱)場・柴刈場・薪場・焼(切・苅)畑など)であったことは明らかです。入会地はこれらの目的で利用されてきたのでしょうが、実際の利用では特定の目的にのみ利用され続けたのではなく、時の流れとともに変化して使われていた、つまりは、あるときは焼畑となり、数年後には放棄されて秣場となり、ある時は木が生えて薪炭林になったなどの利用があったと思われます。

ところで苅場という表現は埼玉県内では少ないように思います。当方が調べた中では苅場坂の他では、埼玉県『新編埼玉県史通史編3近世Ⅰ』(1988・480頁)に記載があるのみです。そこで、刈場坂峠とその周辺がかつて入会地としての秣場等であった記述のある(裏付ける)資料を以下に示します。なお入会地の個別所有化の流れの中での共有関係などについては前の記事で取り上げた土地台帳、登記簿及び公図なども参考になると思われます。

1 飯能市『飯能市史資料編11地名・姓氏』(1986・163頁)

「カリバは猟の狩場、柴草などの苅場など、いろいろに受けとれるが、文字の上からも地形からもカリ(苅)畑、カリウ(苅生)畑といわれる焼畑であろう」と記されています。

2 『新編武蔵風土記稿』(巻之二百四十七・秩父郡之三)
『新編武蔵国風土記稿』秩父郡之三椚平村、それに続く大野村を見ると、
(引用開始)椚平村は郡の東、比企郡の界にあり。(中略)武光庄大河原郷玉川領に属す。我野領※と同じく外秩父と云。椚平・大野の両村は、我野郷の外秩父にも属せず、又坂本・安戸辺の外秩父にも属せず。此両村は一区をなし却って比企郡に隣れる村落に属せり。(中略)水田なく陸田のみなり。陸田といえども谷間僅に平坦を得、或は嵯峨に拠りて耕す、山村なれば、多くは焼畑等なり。(中略)村の西の方北川村境に秣場あり。(後略)
大野村は郡の東、比企郡の界にあり。(中略)武光庄大河原郷玉川領に属す。椚平村と同く外秩父なり。説は前村に弁ぜり。(中略)水田なく陸田のみ。男女農業の隙に男は薪を伐り、女は絹麻布を織り生業とす。(中略)秣場は御林山の下、草刈り来れりと云う。(後略)(引用終了)と記してあります。もちろん江戸時代より以前からだろうとは思いますが、江戸時代にも焼畑や秣場があったことが分かります。一方、都幾川村史資料4(4)近世編大椚地区Ⅱには、「大野村、大椚村に複数の村が共同利用する形態の入会地を確認することはできなかったが、村中入会、または組、あるいはそれよりさらに小さい複数の家を単位とする入会地が多数みられた」との記載もあります。また、入会地を保持するための工夫や努力の様子が通史編を含めて掲載されています。これらの記述からも、大野峠から刈場坂峠にかけて入会地である秣場が広がっていたことが伺えます。

なお、『新編武蔵風土記稿』(巻之二百四十七・秩父郡之二)の「南川村」と「阪元村」のそれぞれの高麗川の項を確認してみると、南川村の高麗川の項では「一に我野川と云、水源は阪元村小丸組蒲阪村より湧出して(後略)」と記されており、阪元村の高麗川の項では「一に我野川と云、水元村の西小丸組の入蒲坂、及び南澤峠の繼ぎ白岩下より出る二流合し(ママ・後略)」と記されています。この用字の解釈に当たっては、江戸時代の地名や人名などの固有名詞の漢字表記は、現代社会と比べてかなりおおらかで、公文書であっても「蒲阪」と「蒲坂」のように現代社会でいえば「誤字」と言えるようなものであっても、読みが合っていれば良い感覚で「当て字」が使われていることが相当程度あることに留意する必要があります。また、このことは明治時代に編纂された土地台帳の小字名等についても同様です。

3 土地台帳・登記簿
ときがわ町内の刈場坂峠所在地の土地台帳地目は「原野 草生地」、当初所有者は「大字大野」、登記簿の表題部は大正13年6月21日受付で「秩父郡大椚村大字大野字舟ノ澤1070番1」であり、地目は原野、甲区の所有権保存は同日受付で「秩父郡大椚村」、その後は昭和30年2月11日(都幾川村の成立日)に「都幾川村大椚財産区」、その後「大椚生産森林組合」にそれぞれ所有権が移転しています。いかにも入会地らしい流れが見て取れます。しかし、このようなケースばかりではなく、他の地番では当初の所有権保存で127人の共有という入会地も確認でき、いろいろなケースがあったようです。

4 農商務省山林局『火入ニ関スル事例 』(1913)
(引用開始)埼玉県秩父郡大椚村、槻川村、高篠村、三沢村に跨る一帯の林野 面積約千町歩 本箇所は俗に内秩父外秩父と称する両区画を界せる山脈の一部にして荒川本支流の分水嶺をなせる部分なり傾斜一様ならずと雖も概して二十五度乃至三十五度地質は凝灰質輝岩・・・(中略)・・・・此の地方一帯の林野は古来の慣例に依り年々村民共同して火入をなし且徒らに広大なる面積を秣場として使用し僅かにその一部より、秣、萱等を刈取るに止まるが如き極めて放漫なる利用を為し居たりしが・・・(国や県の規制により)・・・・遂に明治三十五年頃に至り同地方一帯全く火入を廃止するの効果を収むるを得たり而して火入廃止の結果は採草方法の改良を促し火入当時に比し同一面積よりの採草量著しく増加するに至れり(引用終了)

この事例の中に列記されている村名から火入の行われていた範囲を厳密に特定することは難しいのですが、南は刈場坂峠附近から、北は現在の埼玉県営秩父高原牧場あたりのように思われます。『火入ニ関スル事例』(著作権保護期間満了)は「国立国会図書館サーチ」のこちらで閲覧できます。

5 国土地理院の5万分の1地形図
下の地図は刈場坂峠の表記が最初になされた5万分の1地形図「秩父」(昭和34年部分修正版(昭和36年8月30日発行))の一部です。刈場坂峠の位置が「七曲り峠」の位置に表記されてはいますが、稜線上の植生が荒地記号となっており、その当時に至っても高木のない状態であったことが分かります。

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この地図は、国土地理院発行の5万分の1地形図(秩父)を使用したものである。

6 空中写真
こちらは国土交通省国土地理院の地図・空中写真閲覧サービスで閲覧することが可能です。特に1947(昭和22)年2月8日の米軍撮影空中写真(USA-M28-46)は雪が降った後に撮影されていることもあって最も見やすく、秣場等の範囲が非常に分かりやすく撮影されています。
その写真の中で最も目を引くのは高篠峠を南端として以降反時計回りに白石峠、定峰峠と進み、定峰集落側に下りて、現在の林道定峰線で高篠峠に戻る範囲の非常に広大な高木のない区域です。空中写真の上部で「蚕の上半身」のように見える部分で面積は220haぐらいあると思われます。その他では、白石峠に登る手前の勝負平の辺りもかなり広い高木のない区域となっています。加えて、大野峠の西側、牛立ノ久保、刈場坂峠の北側斜面なども高木のない状態であったことが良く分かります。

なお、刈場坂峠周辺の外秩父の範囲で秣場を苅場呼んでいたかどうかは不明です。『新編武蔵風土記稿』や出入の訴状の中では秣場や馬草場と表記されている例が多いように感じます。
また、昭和初期の山岳関係の書籍には、刈場坂峠周辺に秣場が広がっていたことが数多く書かれています。

2014年11月 2日 (日)

刈場坂峠(苅場坂峠)その4

土地台帳・登記簿・公図

この記事では、主に『武蔵国郡村誌』に登場する「字苅場(坂)」の土地台帳、登記簿及び公図での表記に刈場坂、蒲阪及び蒲坂などの表記のゆれがないかどうかに関する調査について記します。

まず土地台帳、登記簿及び公図に関する基礎的な知識です。明治期の地租改正事業の手段として地券制度が考案されました。地券は土地の所有権を証明し、併せて地租を把握するためのものでしたが、所有権の証明については1886年の登記法の制定(明治19年8月11日法律第1号)により、地租の把握については1889年の土地台帳規則の制定(明治22年3月22日勅令第39号)によりその意義を失い、明治22年3月22日法律第13号により廃止されました。ちなみに登記法の施行は明治20年2月1日、土地台帳規則の施行は明治22年4月1日です。また公図は土地台帳の附属地図です。※1

字「苅場(坂)」のあった北川村は1889(明治22)年4月1日に坂石町分、並びに坂石村、坂元村、南川村、南村及び高山村の5村と合併して、秩父郡吾野村となっています。その後、1921(大正10)年7月1日に郡域の変更が行われて秩父郡から入間郡に編入されています。※2 なお、『武蔵国郡村誌』に記された「北川村字苅場(坂)」は合併を経て「吾野村大字北川字苅場坂」と表記が変わり、旧村名が大字に、旧字名が小字となりました。さらにその後の合併により現在の表記は「飯能市大字北川字苅場坂」となっています。

まずは飯能市役所での調査結果です。公図については和紙に墨痕鮮やかに苅場坂と記されていました。土地台帳については電算化されており、従来の紙のものはマイクロフィルム化されていて一般には閲覧できないとのことでしたので諦めました。しかし、飯能市大字北川字苅場坂の土地は親番で1213番から1220番の8筆のみであることが分かりました。
続いて、さいたま地方法務局飯能出張所での調査結果です。こちらの公図も見事に苅場坂でした。土地台帳については1889(明治22)年に行われた当初作成の「埼玉県秩父郡吾野村大字北川」の土地台帳の該当する地番の小字はすべて苅場坂でした。その他の小字としては、藤原、田通、峯、三田久保、岩井沢、都津路、石風呂、日影指、釜ノ入、二ツ岩、岩茸石、山嵜、山根等がありました。また土地台帳の用紙が面白く「埼玉縣」「關東信越國税局」「東京税務監督局」などの用紙があり土地台帳制度の変遷が感じられました。
続いて登記簿については、登記簿の電算化に伴う閉鎖登記簿を閲覧した範囲では、該当する地番の小字はすべて苅場坂で、当方が確認した表題部での最も古い記載は明治35(1902)年5月21日受付で、土地の所在は「秩父郡吾野村大字北川字苅場坂」でした。また甲区では大正8(1919)年10月10日受付の所有権保存登記で共有者18人というものがあり刈場坂峠附近の土地に入会地があることが分かりました。

続いて、ときがわ町分の刈場坂峠所在地に関する、ときがわ町役場とさいたま地方法務局東松山支局での調査結果です。

まずは、ときがわ町役場での調査結果です。公図の閲覧申請には地番を特定する必要がありますが当方に特定は不可能です。そこで窓口で「土地の地番は分かんないんですけどぉ・・・刈場坂峠の公図を見せていただけますかぁ・・・」という感じでお願いし、探し出していただいたのが「比企郡ときがわ町大字大野字舟ノ沢1070番1」の公図です。ちなみに、ときがわ町側には小字としての刈場坂や苅場坂はありません。
役場にある舟ノ沢の公図は全域で8葉であり、複写されたものもありました。図葉によって小字名の表記が異なるものがあり、国土地理院の2.5万図が舟の沢と平仮名で表記しているように、公図の中にも舟の沢の表記がありました。

続いて、さいたま地方法務局東松山支局での調査結果です。舟ノ沢の表記について電算化に伴う閉鎖登記簿を閲覧した結果、舟ノ沢の親番29筆中、なんと6通りの表記がありました。具体的には、舟ノ沢、舩ノ澤、舟ノ澤、舩ノ沢、船ノ澤、舟之沢です。このような混在はときがわ町に限らず珍しいことではありません。当方が飯能市大字北川字苅場坂の土地台帳、登記簿及び公図の閲覧にこだわっていた理由はまさにこの点にあります。もしかすると苅場坂に刈場坂等が混じっているのではないかと思っていたのでした。なお、現在舟ノ沢については全筆の表題部が再製され、加えて電算化されているので舟ノ沢に統一されています。
ところで舟ノ沢の最終地番を閉鎖登記簿で特定することができなかったので、引き続いて土地台帳を見せていただきました。土地台帳、閉鎖登記簿、公図を見比べていて、当方の常識を大きく超えた縄伸びと林道部分の分筆がなされていないことに非常な驚きを感じました。

※1 土地台帳等については、藤原勇喜『公図の研究』(1986・大蔵省印刷局)を参照して記述しました。

※2 市町村合併については、埼玉県地方課『埼玉県市町村合併史』(1962・埼玉県自治研究会)を参照して記述しました。