※ このカテゴリー「211刈場坂(苅場坂)峠」内の記事は、峠の表記方法や呼び方を探訪する目的で書かれています。それぞれに関連がありますので、一連の記事としてお読みいただければ幸いです。
なお、本編は22編の記事で構成されており、その目次はこちらです。
そもそも埼玉県のホームページに「苅場坂峠」の表記がなされたことに端を発したこのシリーズは、
「峠の表記は『刈場坂峠』か『苅場坂峠』か。そして呼び方は?」
という当方の素朴な疑問を、ただ単に解決しようとしたものであった。自転車探訪のブログとしては場違いとも思える記事を約3か月で22本書き続けて得た当方の結論は、
「刈場坂峠(かばさかとうげ)」
である。以下は当方の調査結果やそれに対する考え方である。
1 字(あざ)
現在の飯能市大字北川の小字である「苅場坂」の名称を確認することができた最も古い文献は明治初期に編纂された「武蔵国郡村誌」であり、同書には「村の西北字苅場」や河川の名称としての「苅場坂川」という表現がある。「苅場」は広い意味での秣場(まぐさば)としての入会地であり、農商務省山林局「火入ニ関スル事例」(1913(大正2)年)によれば1902(明治35)年頃までは火入れが行われていたものと思われる。
また1889(明治22)年に作成された土地台帳を見ると「苅場坂」という字が存在し、その中には入会地が含まれていることも確認できる。
字名と地域名の呼び方に境界を設けることは難しい部分もあるが、あえて記せば字名としての「苅場坂」の呼び方については、飯能市「飯能市史資料編11地名・姓氏」(1986(昭和61)年)によれば「かりばさか」であるが、現在の飯能市税務部資産税課の呼び方では「かりばざか」である。
当方の地元における聞き取り調査の結果では「かばざか」が多数派であったが、中には「刈場坂」の地域内においては、少なくとも60年程度前から「かりばざか」であったと言われる方もおられた。なお、この方のお話は「刈場坂」の地域外においては「かばざか」または「かばさか」と呼ばれている前提でのお話であった。
「苅場坂」という文字の意味するところを考えれば、「かりばざか」が理解しやすいが、地元では「かばざか」が現時点においては多数派である。
※2011(平成23)年11月20日追記
新編武蔵風土記稿巻之二百四十七 秩父郡之二の南川村の高麗川の項には「一に我野川と云、水源は阪元村小丸組蒲阪村より湧出して(後略)」と記されている。
※2011(平成23)年12月10日追記
「坂」本来の発音は「さか」であるが、日本語の発音に一般的にある「連濁」をする、しない、により「か(り)ばざか」となったり、「か(り)ばさか」となったりしているものと思われる。もしかすると「か(り)ばざか」の方が、より古く、使用頻度から考えて地元に密着した発音なのかもしれないとも思う。
2 地域
国土地理院の5万分の1地形図等には地域の名称として「刈場坂」が記されている。当方の聞き取り調査の結果では、地元では「刈場坂」を子の神戸から刈場坂峠にかけての一帯を指す言葉として使っている。本来の表記は「武蔵国郡村誌」の記載を持ち出すまでもなく当然に「苅場坂」のはずである。
当方の聞き取り調査の結果によれば、呼び方については、刈場坂地域の中では「かばざか」が多数派で、一部に「かりばざか」、外部の近接地域(「坂元」等)では「かばざか」、離れた地域(飯能市街・ときがわ町等)では「かばさか」が一般的のようである。
なお、大野鉄人「説経浄瑠璃節原本 武蔵野史談吾野観音霊験記 (原作)」の附録「吾野線沿線案内」(1934(昭和9)年8月6日発行)には、「正丸峠を過ぎて苅場坂上奥武蔵スキー場に着くべし」という記載があるので、昭和初期においては、一般に「苅場坂」とも表記され、「かりばざか」とも呼ばれていたものと思う。奥武蔵スキー場営業当時の状況を知る方からも、当時「苅」の字を用いたとのお話をいただいた。
3 峠
(1)刈場坂峠

「刈場坂峠」については、新編武蔵風土記稿、武蔵国郡村誌等で表記を確認することはできなかった。当方の調査で記載が確認できた最も古い文献は、武蔵野電車「日帰りのスキー 奥武蔵高原」(1932~33(昭和7~8)年)のリーフレットである。なお、このリーフレット発行の年代を昭和7~8年とするのは、奥武蔵スキー場営業当時の状況を知る方からの聞き取り調査の結果によるものである。また、この聞き取り調査の結果は前項で引用した奥武蔵スキー場の記述を含む「吾野線沿線案内」の発行日が1934(昭和9)年8月6日であることから考えても妥当であると思われる。
神山弘・新井良輔「増補ものがたり奥武蔵 伝説探訪二人旅」(金曜堂出版部・1984(昭和59)年)には「(武蔵野鉄道は)今まで外秩父と総称されていたこの峠道一体を奥武蔵高原と名付け、無名の草刈場の入会地を、草刈場へ登る坂の意味から刈場坂峠と呼ばせ」との記載があるが、明治期にすでに字苅場坂が存在していたことを考慮しても、武蔵野電車の吾野駅までの開通に伴って(あるいは奥武蔵スキー場の開設に伴って)「奥武蔵高原」や「刈場坂峠」と呼ばれるようになったことは事実であろう。
その後の文献としては、小林玻璃三等「奥武蔵 山と渓のハイキング」(博山房・1939(昭和14)年)や春日俊吉「奥武蔵の山と丘陵」(朋文堂・1941(昭和16)年の改訂増補版)等がある。読みについては、「奥武蔵 山と渓のハイキング」では「かばさかとうげ」と「かばざかとうげ」が混在、「奥武蔵の山と丘陵」では「かばざかとうげ」となっている。前項に記した現在の地域の呼び方からしても、納得できる混在である。また、当方の聞き取り調査の結果では、奥武蔵スキー場営業時の実際を知る方から、当時の地元(子の神戸附近)では「かばさかとうげ」と呼んでいたとのお話を伺っている。
なお、「奥武蔵 山と渓のハイキング」(136頁)には、「吾野駅からバスで子ノ神戸・高原下に到り、それからあの気持良い林間の径を刈場坂のヒュッテ」に向ふ。刈場坂の登り口で顧る空に浮ぶ伊豆ヶ嶽は何時見てもなつかしい山の姿である。」と書かれているので、この当時ハイカーの間でも、「峠」を付けずに「刈場坂」と呼ぶことがあったことが分かる。
国土地理院の5万分の1地形図には、1959(昭和34)年部分修正版(1961(昭和36)年8月30日発行)から刈場坂峠の表記が継続してなされているが、記載当初の読みは不詳であるものの、現在は峠の所在をときがわ町とし、読みは「かりばさかとうげ」としている。
国土地理院の表記を受けてか、ハイキング関係の書籍や地図において「刈場坂峠」以外の表記は確認できなかった。また、飯能市「飯能市メガホン」1962(昭和37)年5月15日(第273)号1頁においても、ハイキング関係の記事として「刈場坂峠」の表記がなされている。
(2)苅場坂峠
当方の調査結果では「苅場坂峠」の表記を始めたのは埼玉県の林業担当部局の可能性が高い。
その理由は、林道苅場坂線開通以前には「苅場坂峠」の表記が飯能市で行われておらず、加えて一般的に用いられていなかったことに加え、埼玉県の行政内部において、企画担当部局は埼玉県「埼玉県総合振興計画」(1963(昭和38)年)270頁で「刈場坂峠」と表記し、環境担当部局は、奥武蔵林道開通後に至っても首都圏自然歩道(関東ふれあいの道)について「刈場坂峠」を用いているなど、埼玉県の行政内部でも林業担当部局以外では「苅場坂峠」を用いていないことによる。
埼玉県の林業担当部局は林道苅場坂線終点附近の小字が「苅場坂」であったために峠の名称を「苅場坂峠」とし、大野峠北側の林道案内標識の設置などを行ったものであるが、その後の奥武蔵林道完成式にかかる林業担当部局の情報提供は、埼玉新聞(1968(昭和43)年5月9日)「奥武蔵林道 明日待望の完成式 観光開発へ第一歩 “グリーンライン”の布石に」の記事や、飯能市「広報はんのう」(1968(昭和43)年6月1日(第411)号)の「奥武蔵林道完成 森林資源と観光の開発に期待」の記事に結果として「苅場坂峠」と表記させるなど、「苅場坂峠」を広める主要因となったように思う。
読みは、小字名を持ち込んだのであるから、当然に「かりばざかとうげ」である。
「苅場坂」の本来の意味からすれば「苅場坂峠」もうなづける表記であり、本来なら武蔵野電車が「苅場坂峠」とすれば良かったのかもしれないが、約30年の歴史を持ち広く一般に親しまれていた「刈場坂峠(かばさかとうげ)」に小字の表記を新たに持ち込んでしまったことには違和感を感じる。しかしながら、それから40年以上の月日が過ぎ去っている今に至っては、その歴史を感じるのみである。
(3)地元での呼び方
当方の聞き取り調査の結果では、「峠」をつけずに「刈場坂」と呼ぶのが一般的である。飯能市側での呼び方は主に「かばざか」、ときがわ町側での呼び方は「かばさか」であった。なお、ときがわ町側では「スキー場」という呼び方も現存する。
(4)飯能市行政
飯能市行政は、もともと飯能市「飯能市メガホン」(1962(昭和37)年5月15日(第273)号)に記載されているとおり「刈場坂峠」と表記していた。当方の調査した範囲では「苅場坂峠」を初めて用いたのは飯能市「広報はんのう」(1968(昭和43)年6月1日(第411)号)であり、この号での表記は埼玉県林業担当部局の影響が極めて強いものと言える。
それ以降に関しては、埼玉県の林業担当部局との関係から飯能市の林業担当部局等では「苅場坂峠」を使用している(飯能市「奥武蔵林道開設促進期成同盟会資料」(1967(昭和42)年~)参照。)。それらの影響もあってか飯能市行政では「苅場坂峠化」の流れが進んではいるものの、気を許すと「刈場坂峠」と表記してしまう程度の扱いである。また、市当局の複数の部署に「苅場坂峠」の読みを伺っても回答に苦慮してしまうのが本当のところだと思う。
(5)ときがわ町行政及び国土地理院
旧都幾川村行政では、旧都幾川村「昭和35年度調整 基本計画書」(1960(昭和35)年)からも分るように「刈場坂(かばさか)」と呼んでいた一方で、その頃からか「刈場坂峠」とも呼ぶようになった。その後、「飯能市史資料編11地名・姓氏」の影響を受けてか「刈場坂峠(かりばさかとうげ)」と公式に表記するようになっている。しかし、飯能市と異なるところは、奥武蔵林道開設促進期成同盟会の構成団体ではあったものの、基本的に「刈場坂峠」と表記し続けている点である。
また、国土地理院における表記や呼び名は、旧都幾川村の考え方によっているものと思われる。
(6)結論
以上のことから、「刈場坂峠」は小字「苅場坂」とは別に、昭和初期に武蔵野電車により創られた峠名であり、当初の表記は「刈場坂峠」、主な呼び方は「かばさかとうげ」であった。その後、林道苅場坂線の開通に合わせて埼玉県の林業担当部局の「苅場坂峠」の表記が始まり、各方面に影響を与えながら小字「苅場坂」との混同が顕著となって、呼び方においても「かりばざかとうげ」「かりばさかとうげ」等が出現したものと思われる。
5 謝辞
このシリーズを終えるにあたり、レファレンスでお世話になった埼玉県立浦和図書館の皆様、現在もいろいろな調査をされている飯能市郷土館の皆様、曖昧な表現が続いたにもかかわらず最後までお付き合いいただいた当ブログの読者の皆様にお礼を申し上げたい。
これで、この短歌を自信をもって読むことができる。
(坂倉登喜子1938(昭和13)年)
刈場坂登りつめれば山小屋に晝餉の煙立ち昇る見ゆ
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このシリーズの結論に至ったので、カテゴリー「刈場坂(苅場坂)峠」内の記事を一部修正させていただいた。
奥武蔵スキー場の第1ヒュッテの位置については確認中である。確認が終了次第追記したい。また、古文書等で新たな成果があった場合にも追記したい。