« 刈場坂峠(苅場坂峠)その2 | トップページ | 刈場坂峠(苅場坂峠)その4 »

2014年11月 2日 (日)

刈場坂峠(苅場坂峠)その3

新編武蔵風土記稿・武蔵国郡村誌

 『新編武蔵風土記稿』(巻之二百四十七・秩父郡之二)の「北川村」を読んでみました。

(引用開始)北川村 北川村は郡の東にあり、高麗領上我野郷に属す、或は武光庄とも云、江戸より十七里の行程なり、村名の起りは此北川村と南川村との間に、一山長く東西に横たはりて、南北の両村を隔てり、南川は小丸峠の下より注ぎ、北川は村の西岩井澤より湧出せり、南北二流の谷川ともに村の東に至り、件の山の端なる阪元村の内山崎と云る所にて落合ひ、高麗川となり東流せり、名義これによる、(中略)
小名 間野組、中組、柏木組、岩井組
ぶな峠 村の北の方へ踰(※こえ)る峠なり、登ること一里許にして絶頂に至る、こゝを界として椚平村にいたる(後略)」である。(引用終了)

非常に面白いです。上我野郷は吾野村で下我野郷は東吾野村に相当し、武光庄は現在の文字で書けば武甲庄となるはずです。「一山長く東西に横たはりて」は光景が目に浮かびます。国道299号線を走っていると、西吾野駅への分岐点あたりで目の前に大きな山が横たわります。2.5万図でいえばこの山(北西南東方向に横たわる尾根)のことを言っているのだろうと思います。

小名(※小字)の「間野組、中組、柏木組、岩井組」は現在の地図(国土地理院の2.5万図や「山と高原地図22奥武蔵・秩父」(昭文社))でも、ほぼすべてを確認することができます。ここで面白いのは「件の山の端なる阪元村の内山崎と云る所」で、2.5万図でいえばこの地点となります。

続いて、刈場坂峠の所在地が北川村であったためチェックしきれていなかった『新編武蔵風土記稿』(巻之二百四十七・秩父郡之二)の「南川村」と「阪元村」のそれぞれの高麗川の項を確認してみました。南川村の高麗川の項では「一に我野川と云、水源は阪元村小丸組蒲阪村より湧出して(後略)」と記されており、阪元村の高麗川の項では「一に我野川と云、水元村の西小丸組の入蒲坂、及び南澤峠の繼ぎ白岩下より出る二流合し(ママ・後略)」と記されています。

つまり、『新編武蔵風土記稿』には刈場坂峠に関する直接的な記述はないものの水源としての刈場坂が蒲阪と蒲坂の文字で「かばさか」として書かれていたことが分かりました。

次に、明治初期に編纂された『武蔵国郡村誌』の秩父郡北川村の記述について調べてみました。

(引用開始)山川
高麗川 深一尺乃至三尺巾三間乃至九間。急流澄清。村の西方岩井沢より発し数流を合して南方坂元村に入る。其間一里。
苅場坂川 深一尺巾六尺乃至九尺。村の西北字苅場より発し西方坂元村飛地に入る。其間四町。(他の山川は略。実際には山の記載はない。)
神社
山神社 東西十一間南北六間面積六十六坪。村の北にあり。大山祇命を祭る。祭日七月十七日。
稲荷社 東西八間南北五間。面積四十坪。村の北にあり。保食命を祭る。祭日七月十八日。(他の神社は略)(引用終了)

文中の苅場坂川は、現在の高麗川最上流部を指していることは明らかで、ある意味で『武蔵国郡村誌』は高麗川の源流をぶな峠としていることになります。下の写真は、現在の高麗川源流保全之碑です。

2009042906

一方他の記述の中では、苅場坂川についての「村の西北字苅場より発し」に目が行きます。「字苅場」の表記は当方の知る限り『武蔵国郡村誌』だけであり、一方川の名前は苅場坂川であり、また『新編武蔵風土記稿』には高麗川の水源として蒲阪及び蒲坂の記述があり、加えて『武蔵国郡村誌』のすべての編纂が終了した1881(明治14)年から、「字苅場坂」の記述がある土地台帳が作成された1889(明治22)年までの間は8年間しかありませんので、その8年のうちに「字苅場」が「字苅場坂」に変わるものとも思えません。以上のことからこの箇所の記述は本来「村の西北字苅場坂より発し」と書くべきところ坂が抜け落ちてしまった可能性が高いように思います。
また苅場と苅場坂の2つの地名があったと考えた場合には、明治時代の土地台帳に「字苅場」がないこと、現在においても稜線に至る一帯を刈場坂と呼んでいること、苅場を「かば」と呼ぶのは発音として不自然で「かりば」であったのであれば苅場坂の呼称は「かりばさか」になるはずで、『新編武蔵風土記稿』の蒲阪や蒲坂の表記と矛盾することになります。

« 刈場坂峠(苅場坂峠)その2 | トップページ | 刈場坂峠(苅場坂峠)その4 »

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 刈場坂峠(苅場坂峠)その2 | トップページ | 刈場坂峠(苅場坂峠)その4 »