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2014年11月 3日 (月)

刈場坂峠(苅場坂峠)その5

入会地・秣場

刈場坂峠とその周辺はかつて入会地としての秣場等(草刈場・茅戸・茅(萱)場・柴刈場・薪場・焼(切・苅)畑など)であったことは明らかです。入会地はこれらの目的で利用されてきたのでしょうが、実際の利用では特定の目的にのみ利用され続けたのではなく、時の流れとともに変化して使われていた、つまりは、あるときは焼畑となり、数年後には放棄されて秣場となり、ある時は木が生えて薪炭林になったなどの利用があったと思われます。

ところで苅場という表現は埼玉県内では少ないように思います。当方が調べた中では苅場坂の他では、埼玉県『新編埼玉県史通史編3近世Ⅰ』(1988・480頁)に記載があるのみです。そこで、刈場坂峠とその周辺がかつて入会地としての秣場等であった記述のある(裏付ける)資料を以下に示します。なお入会地の個別所有化の流れの中での共有関係などについては前の記事で取り上げた土地台帳、登記簿及び公図なども参考になると思われます。

1 飯能市『飯能市史資料編11地名・姓氏』(1986・163頁)

「カリバは猟の狩場、柴草などの苅場など、いろいろに受けとれるが、文字の上からも地形からもカリ(苅)畑、カリウ(苅生)畑といわれる焼畑であろう」と記されています。

2 『新編武蔵風土記稿』(巻之二百四十七・秩父郡之三)
『新編武蔵国風土記稿』秩父郡之三椚平村、それに続く大野村を見ると、
(引用開始)椚平村は郡の東、比企郡の界にあり。(中略)武光庄大河原郷玉川領に属す。我野領※と同じく外秩父と云。椚平・大野の両村は、我野郷の外秩父にも属せず、又坂本・安戸辺の外秩父にも属せず。此両村は一区をなし却って比企郡に隣れる村落に属せり。(中略)水田なく陸田のみなり。陸田といえども谷間僅に平坦を得、或は嵯峨に拠りて耕す、山村なれば、多くは焼畑等なり。(中略)村の西の方北川村境に秣場あり。(後略)
大野村は郡の東、比企郡の界にあり。(中略)武光庄大河原郷玉川領に属す。椚平村と同く外秩父なり。説は前村に弁ぜり。(中略)水田なく陸田のみ。男女農業の隙に男は薪を伐り、女は絹麻布を織り生業とす。(中略)秣場は御林山の下、草刈り来れりと云う。(後略)(引用終了)と記してあります。もちろん江戸時代より以前からだろうとは思いますが、江戸時代にも焼畑や秣場があったことが分かります。一方、都幾川村史資料4(4)近世編大椚地区Ⅱには、「大野村、大椚村に複数の村が共同利用する形態の入会地を確認することはできなかったが、村中入会、または組、あるいはそれよりさらに小さい複数の家を単位とする入会地が多数みられた」との記載もあります。また、入会地を保持するための工夫や努力の様子が通史編を含めて掲載されています。これらの記述からも、大野峠から刈場坂峠にかけて入会地である秣場が広がっていたことが伺えます。

なお、『新編武蔵風土記稿』(巻之二百四十七・秩父郡之二)の「南川村」と「阪元村」のそれぞれの高麗川の項を確認してみると、南川村の高麗川の項では「一に我野川と云、水源は阪元村小丸組蒲阪村より湧出して(後略)」と記されており、阪元村の高麗川の項では「一に我野川と云、水元村の西小丸組の入蒲坂、及び南澤峠の繼ぎ白岩下より出る二流合し(ママ・後略)」と記されています。この用字の解釈に当たっては、江戸時代の地名や人名などの固有名詞の漢字表記は、現代社会と比べてかなりおおらかで、公文書であっても「蒲阪」と「蒲坂」のように現代社会でいえば「誤字」と言えるようなものであっても、読みが合っていれば良い感覚で「当て字」が使われていることが相当程度あることに留意する必要があります。また、このことは明治時代に編纂された土地台帳の小字名等についても同様です。

3 土地台帳・登記簿
ときがわ町内の刈場坂峠所在地の土地台帳地目は「原野 草生地」、当初所有者は「大字大野」、登記簿の表題部は大正13年6月21日受付で「秩父郡大椚村大字大野字舟ノ澤1070番1」であり、地目は原野、甲区の所有権保存は同日受付で「秩父郡大椚村」、その後は昭和30年2月11日(都幾川村の成立日)に「都幾川村大椚財産区」、その後「大椚生産森林組合」にそれぞれ所有権が移転しています。いかにも入会地らしい流れが見て取れます。しかし、このようなケースばかりではなく、他の地番では当初の所有権保存で127人の共有という入会地も確認でき、いろいろなケースがあったようです。

4 農商務省山林局『火入ニ関スル事例 』(1913)
(引用開始)埼玉県秩父郡大椚村、槻川村、高篠村、三沢村に跨る一帯の林野 面積約千町歩 本箇所は俗に内秩父外秩父と称する両区画を界せる山脈の一部にして荒川本支流の分水嶺をなせる部分なり傾斜一様ならずと雖も概して二十五度乃至三十五度地質は凝灰質輝岩・・・(中略)・・・・此の地方一帯の林野は古来の慣例に依り年々村民共同して火入をなし且徒らに広大なる面積を秣場として使用し僅かにその一部より、秣、萱等を刈取るに止まるが如き極めて放漫なる利用を為し居たりしが・・・(国や県の規制により)・・・・遂に明治三十五年頃に至り同地方一帯全く火入を廃止するの効果を収むるを得たり而して火入廃止の結果は採草方法の改良を促し火入当時に比し同一面積よりの採草量著しく増加するに至れり(引用終了)

この事例の中に列記されている村名から火入の行われていた範囲を厳密に特定することは難しいのですが、南は刈場坂峠附近から、北は現在の埼玉県営秩父高原牧場あたりのように思われます。『火入ニ関スル事例』(著作権保護期間満了)は「国立国会図書館サーチ」のこちらで閲覧できます。

5 国土地理院の5万分の1地形図
下の地図は刈場坂峠の表記が最初になされた5万分の1地形図「秩父」(昭和34年部分修正版(昭和36年8月30日発行))の一部です。刈場坂峠の位置が「七曲り峠」の位置に表記されてはいますが、稜線上の植生が荒地記号となっており、その当時に至っても高木のない状態であったことが分かります。

2010072402
この地図は、国土地理院発行の5万分の1地形図(秩父)を使用したものである。

6 空中写真
こちらは国土交通省国土地理院の地図・空中写真閲覧サービスで閲覧することが可能です。特に1947(昭和22)年2月8日の米軍撮影空中写真(USA-M28-46)は雪が降った後に撮影されていることもあって最も見やすく、秣場等の範囲が非常に分かりやすく撮影されています。
その写真の中で最も目を引くのは高篠峠を南端として以降反時計回りに白石峠、定峰峠と進み、定峰集落側に下りて、現在の林道定峰線で高篠峠に戻る範囲の非常に広大な高木のない区域です。空中写真の上部で「蚕の上半身」のように見える部分で面積は220haぐらいあると思われます。その他では、白石峠に登る手前の勝負平の辺りもかなり広い高木のない区域となっています。加えて、大野峠の西側、牛立ノ久保、刈場坂峠の北側斜面なども高木のない状態であったことが良く分かります。

なお、刈場坂峠周辺の外秩父の範囲で秣場を苅場呼んでいたかどうかは不明です。『新編武蔵風土記稿』や出入の訴状の中では秣場や馬草場と表記されている例が多いように感じます。
また、昭和初期の山岳関係の書籍には、刈場坂峠周辺に秣場が広がっていたことが数多く書かれています。

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