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2014年11月 4日 (火)

刈場坂峠(苅場坂峠)その7

或る峠の物語

大畠達司編・著『或る峠の物語 -奥武蔵・刈場坂峠-』(1998)を改めて読んでみました。和装、電子複写、48頁の本です。下の写真は当方が著者から頂いた本の写真です。本には「編・著」と表記されていますが、図書館学的には「著」という感じです。しかし、「編」と「著」の間の「・」に、「みんなの言葉が集まってできた本だぞ!」という著者の思いが感じられるような気がします。

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内容的には山岳図書や定期刊行物等の引用をしながらの個人的な回想も多く、読んでいて非常に面白い本です。本の中に刈場坂峠の名称の由来に関する記述はありませんが、漢字表記は刈場坂峠で統一され、読みについても「カバサカ」と明記してあります。昭和初期のスキーやハイキングを通じて見た刈場坂峠周辺の様子や「奥武蔵高原スキー場」の様子が大変に良くわかる本です。

こちらは『或る峠の物語』に口絵として掲載されている奥武蔵第一ヒュッテのスケッチ(1946(昭和21)年4月18日・新井芳雄画)です。許可を得てスケッチに書名の文字を重ねて転載しました。この本の中で印象に残っているものに坂倉登喜子さんの短歌『奥武蔵の山と峠』に詠まれたという歌のひとつ「刈場坂登りつめれば山小屋に晝餉の煙立ち昇る見ゆ」がありますが、このスケッチの建物から昼食を準備するかまどの煙が上がっていたのかと思うと感慨深いものがあります。

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※ このスケッチの転載等をお断りします。

著者のお話では、スケッチの作者が伊豆ヶ岳方向を向いて画いたもので、建物手前には岩が、スケッチ右下には後述する歌碑が画かれています。まず、画かれている岩は下の写真の刈場坂峠の横見山登山道分岐附近にある1937(昭和12)年10月の建立の祠の附近にある岩とのことです。現地に行ってみると、この附近には平坦な部分があり確かに建物があったとしても不思議はありません。

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また、本にはこのスケッチの位置に現在も歌碑の台石が残っていると記されており、実際に確認してみると、今も「想い出の丘」と書かれた標柱の近くに残っています。

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台石の手前からスケッチしたのと同じ方向を向いて撮影したのが下の写真です。これで奥武蔵第一ヒュッテの位置が特定できました。

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奥武蔵第一ヒュッテの位置は、かつて1947(昭和22)年2月8日米軍撮影の空中写真(写真名:USA_M28_115の6倍部分引伸ばし写真)で鮮明には確認できなかったものの、四角形の人工物らしきもの(下の写真の中央付近)を確認していましたので、この辺りではないかと思っていたのですが確信は持てていませんでした。これですっきりしました。

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国土地理院の空中写真(1947年米軍撮影)

また、この歌碑には一時行方不明となり、林道工事中に発見され、工事関係者等により新たに台座が作製され、「刈場坂峠の標」脇の現在地に移設して設置されたという経緯があります。

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なお、この歌碑は、妻が亡き夫を偲んで1938(昭和13)年に建立したもので「暁の光の海に霧はれて遠山波乃湧き立つみゆ」という歌が刻んであります。

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続いて昭和初期の山岳図書の刈場坂峠に関する表記について触れておきたいと思います。

小林玻璃三等『奥武蔵 山と渓のハイキング』(1939・博山房)

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上の写真は当方が古書店で購入した本の写真です。この本はハイキングコース等により複数の方が分担して執筆されており、坂倉登喜子さん執筆部分での峠名は刈場坂峠で統一されており、読みについては、「かばさかとうげ」と「かばざかとうげ」の両方のルビが確認できました。(引用開始)静かな山里の間を幾つかの小橋を渡って、画材になりさうな水車小屋風景を見送って進んで行くと、地図に鳥居のある所、石段の上に小祠(山の神)があり、(中略)ジグザグに尚も林間を登って行くと、峠橋と記された高麗川の源流に達する。(中略)最後の登りを一息に登れば間もなく樹間に第一ヒュッテを見上げることが出来る。(中略)峠に達した時、其処の瀟洒な第一ヒュッテ(一泊三〇銭)から、紫色の煙が大空にゆらゆらと昇ってゐるのを見れば(後略)(引用終了)と書かれており、先ほど引用した短歌の情景がより鮮明に想像できます。また下の写真はこの文に記されている刈場坂の集落の麓にある石段と社です。参道の階段の脇には稲荷社がありますが「大正九年二月建立」との記載があり、坂倉登喜子さんもこの階段を登ったかもしれません。

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岩根常太郎氏執筆部分では「吾野駅からバスで子ノ神戸・高原下に到り、それからあの気持良い林間の径を刈場坂のヒュッテに向ふ。刈場坂の登り口で顧る空に浮ぶ伊豆ヶ嶽は何時見てもなつかしい山の姿である。(ルビなし)」と書かれていますので、この当時、地元の方だけではなくハイカーの間でも、先ほどの坂倉登喜子さんの短歌もそうですが、峠を付けずに単に刈場坂と呼ぶことがあったことが分かります。

春日俊吉『奥武蔵の山と丘陵(改訂増補版)』(1941・朋文堂)
著者は山岳やハイキングの世界では高名な方なのだろうと思われますが、この本の中では峠名は刈場坂峠であり「かばざか」のルビが確認できました。
加えてこの本には、別の項に面白い記述があり、正丸峠から日和田山までタイム競争をして19歳の男性が勝ったということが書いてありました。戦前からトレラン(トレイル競歩?)をしていたみたいです。日本におけるトレランの元祖?かもしれない感じがします。

最後に山バッジの写真を掲載しておきます。当方が行った聞き取り調査では、かつて刈場坂峠には「りんどう茶屋」「刈場坂峠茶屋」「名称不詳」の3軒の茶屋があったとのことで、下の写真の刈場坂峠の山バッジはフルヤ(古谷)徽章製です。

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