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2012年7月 8日 (日)

久地円筒分水

今朝方は雨で、さすがに山登りに出かける気にもならなかったので、以前から訪ねてみようと思っていた川崎市の二ヶ領用水(にかりょうようすい)の久地円筒分水(くじえんとうぶすい)に行ってきました。久地円筒分水は、川崎市?にお住まいの方から以前に教えていただいていて、いつかは行ってみようと思っていた分水です。自宅を車で出発して関越、環八、246、府中街道と走って現地に到着しました。

二ヶ領用水は多摩川の上河原堰及び宿河原堰で取水した水を用水として用いるもので、現地の案内板によれば、徳川家康の命を受けた小泉次太夫が、慶長2(1597)年から東京側の六郷用水とともに工事に着手し、14年の歳月をかけて慶長16(1611)年に完成させた神奈川県最古で最大の農業用水とのことです。また、久地円筒分水は、同様に現地の案内板によれば、昭和16(1941)年、多摩川右岸農業水利改良事務所長であった平賀栄治の設計建設により、水害防止のための新しい平瀬川の開削と二ヶ領用水の伏せ越しともに完成したとのことです。

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久地円筒分水により二ヶ領用水は、根方堀、川崎堀、六ヶ村堀、久地・二子堀の4つの堀に分水されますが、その比率は灌漑面積に応じた、7.415 : 38.471 : 2.702 : 1.675とのことで、円筒分水でなければ、その比によって正確に分水することは困難なように思います。

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埼玉県寄居町用土の比例円筒分水堰と比べて面白いところは、2重になっている円筒の内側の円筒から常に水が噴き出している訳ではないというところでしょうか。確かに上の写真で水は流れていますが内側の円筒は水がたまっているだけで越流はしていません。もしかすると、単に伏せ越しの上流側の水位を内側の円筒の天端以上にすれば水が吹き上がるというだけの話かもしれません。なお、近くで感じた水の臭いですが下水処理場の最終沈澱池ぐらいの臭いはします。いろいろと対策はとっているようですが昭和初期とは大いに違う都市化の状況を感じました。

その後、川崎といえばフロンターレということで、等々力(とどろき)陸上競技場に行ってみました。少年サッカーの試合が行われていました。陸上競技場のある等々力緑地には大きな釣池があるのですが、その池の水は二ヶ領用水の水かと思って調べてみたのですが、池は砂利をとった大きな穴で、池の水は多摩川の伏流水と雨水とのことのようで、ちょっと想像と違いました。

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等々力緑地を後にして府中街道を北上。せっかくですのでフロンターレグッズを売っている「フロンターレローソン」(略して「フローソン」、正確にはローソン高津駅前店)に寄って、飲み物等を補給。さらに北上して生田緑地を目指しました。藤子・F・不二雄ミュージアムがあったり、ドラえもんの市バスが走っていたりと面白いです。

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生田緑地の駐車場に車をとめ、川崎市立日本民家園を訪問しました。この園は川崎市立の野外博物館で、展示物は全国各地から移築した20数軒の民家ですが、建物の中には国指定重要文化財もあり、どの建物もすごいです。丘陵地に巧みにレイアウトされていますが、移築経費や維持経費が心配になってしまいます。写真撮影はNGとのことで、受付の係の方に確認してみると、個人的な写真は撮っても良いが、HPなどに掲載することは許可を得ない限りNGとのことなので看板の写真をアップしておきます。

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生田緑地を後にして「戦車道路」のある都立小山内裏(おやまだいり)公園を目指しました。小山内裏公園は東京都町田市と八王子市に跨る面積約46haの丘陵地の公園です。公園の中の尾根上には「尾根緑道(おねりょくどう)」が走っています。この道がかつて「戦車道路」と呼ばれていた道です。「戦車道路」の由来について現地の看板の内容を引用します。

----- 「戦車道路」の由来 -----
町田市と八王子市のほぼ境界を走るこの尾根の道は、以前は「戦車道路」と呼ばれていました。
それは、この道が第二次世界大戦の末期に、相模原陸軍造兵廠(現在の在日米軍相模原補給廠)で製造・組立てられていた戦車の性能テストと操縦訓練用の道路として造られたからです。
戦後しばらくは、防衛庁が管理していましたが、多摩ニュータウンの整備のため、土砂の運搬道路として舗装され現在に至っています。

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「戦車道路」が舗装もされていなかった頃、何度も訪れたことがあり、周辺を含めてのあまりの景色の変わりようにビックリするやら驚くやらでしたが、懐かしかったです。公園内の往復3,180mを歩き、最後に鑓水小山給水所の近くから夕焼けを眺めました。

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なお、当方の聞き取り調査では、小山内裏公園の「内裏」の由来は、江戸末期に京の内裏から来た能楽師がこの地に住み着いたことに由来するのだそうです。

今日は、以前から行きたかった久地円筒分水にも行け、30年以上ぶりに訪れた「戦車道路」も非常に懐かしかったです。

※ この記事はコメントの内容を参考にするなどして加筆修正したものです。

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コメント

遥々、おいでになりましたか!
暫く更新が無かったもので、気になっていました。

私も真ん中の筒から吹いていないので、動力を使って演出してるのかなーと思っていましたが、そこに気が付かれるとは流石です。

今度、そちらの円筒分水に行ってみたいので、射程距離と相談します。(最近水道ネタが多い気が。。)

コメントありがとうございます。
単に、伏せ越し上流側の二ヶ領用水の堰の水位を内側の円筒の天端より上げれば、水が吹き上がるという理屈かもしれません。でもその場合でも、外側の円筒から先に水が流れ出てしまう分もあるはずで・・・謎ですね。
寄居は小鹿野遠征に比べれば近いでしょうが、自走となると日が長いうちで・・・。そうでないと水の出ている可能性も少ないんではないでしょうか。

連投失礼します。
久地の構造は、Wiki にありました。
真ん中の筒は、柱で支えられていて、下部はスカスカなんですね。
水量が多い時の整流目的のようですね。

小鹿野のデポ地、利用させていただきました。ありがとうございます。

用土の見ごろは7月一杯のようですが、都合が付けば、行ってみたいと思います。

続けてのコメントありがとうございます。
内側の円筒は波によって水が均等に越流しないことを避けるためということなんですね。考えてみれば、寄居のものは伏せ越しの落差が相当にあるので3重構造にして更に念入りなのかもしれません。そろそろ熱中症の季節です。ご自愛ください。

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