スタスタ
わが家にスウェーデン生まれのネコがやってきた。
名前はマイキー。作者はリサ・ラーソン。有名なネコである。
ネコは「性格は気まぐれとされ、行動・習慣はむしろ頑固で多分に自己中心的」などと言われているらしいが、ネコは「勝手に決めないでくれ」と思っているに違いない。
でも、何か視線を投げかけながらもスタスタ歩いて行く感じがいい。
わが家にスウェーデン生まれのネコがやってきた。
名前はマイキー。作者はリサ・ラーソン。有名なネコである。
ネコは「性格は気まぐれとされ、行動・習慣はむしろ頑固で多分に自己中心的」などと言われているらしいが、ネコは「勝手に決めないでくれ」と思っているに違いない。
でも、何か視線を投げかけながらもスタスタ歩いて行く感じがいい。
以前から・・・というかこのブログを始めた頃、他の方のブログで雪の林道を車で走る記事を読み、いつかは雪が降ったときに奥武蔵グリーンライン方面に行ってみたいと思っていたのだが、とはいえ、なかなか都合よく雪も降ってくれず、行けずじまいになっていた。
ということで、今日は午後から時間がとれたので思い切って行ってみることにした。自転車(MTB)で走る体力も技術も根性もないので、目的地では歩くことにして車で出発。
今日の道中で見かけた車。結構な台数である。
除雪されているであろう道を選んで登る。峠が見える。
結局、グリーンラインを走ったり歩いたりすることはせず枝道へ。本格的な雪道である。積雪は30~40センチくらいだろうか。タイヤが大きくて車高の高い四駆車が、何事もないかのように颯爽と走っている。当方は歩きである。
山道に入る。尾根道を歩く。先行者は1人。しかし、スパッツは長くないとどうにもならないというのが良くわかった。結構、歩くのが大変だった。
この間から見たいと思っていた八ヶ岳が見えた。赤岳、横岳、天狗岳などがわずかに見える。
御荷鉾山方面である。スーパー林道であろうか・・・線のようなものも見える。右手奥には浅間山。左手前には城峯山が見える。

見晴しを楽しみながら、先ほど買ってきたポンデリングを食べ、テルモスのコーヒーを飲む。美味しかった。
しばらく歩いて、雲海に浮かぶスカイツリーを見ることができた(写真左中央)。高さが際立っていることが良くわかる。こんな日にスカイツリーの展望台に登ったら雲海しか見えないのだろう。
このブログのタイトルは探訪だが、似たような言葉に、放浪、彷徨、逍遙、散策などがある。さて、今日は何だったんだろう。
先日、ポケットの中に入れておいたCX3を取り出してみるとADJ/OKボタンがない。あせる ![]()
ポケットの中を探してみるとボタンは出てきたけど・・・販売店保証で修理できるかなぁ?
この冬も、鳥たちの命をつなぎピラカンサ・・・。考えてみればお互い様か・・・。
埼玉県は1都6県と境を接している。県境上で他の2(都)県の境界でもある地点のうち、河川でないところ(歩いて行けるところ)は、雲取山(東京都・山梨県)、甲武信ヶ岳(山梨県・長野県)、三国山(長野県・群馬県)、そして、本日探訪した地点(群馬県・栃木県)の4地点である。
雲取山、甲武信ヶ岳、三国峠は行ったことがあるので、残る1地点を目指すこととして車で出発。
まずは、道の駅「童謡のふる里おおとね」を目指す。作曲家下總皖一(しもおさかんいち)の像がある。
その後、利根川の右岸堤防に登り上流の埼玉大橋方面を見る。
このやや下流の堤防?に「おおとね童謡のふるさと室」があり、下總皖一に関する資料が展示されている。下總皖一は童謡「野菊」、「花火」、「たなばたさま」、文部省唱歌「ゆうやけこやけ」などの作曲者であり、数多くの校歌も作曲している。展示の中で印象的だったのは、「下總」の読み方で、加須市では「しもおさ」と読むこととしているとの理由を示しての展示があった。もちろん「しもふさ」や「しもうさ」の読み方があることも紹介している。
「おおとね童謡のふるさと室」の前には、「決潰口跡」の碑があった。この碑のある場所が、1947(昭和22)年9月のカスリン台風による利根川堤防の決潰場所のようで、その水害から3年後の1950(昭和25)年9月に建てられたものである。遠くに見える鉄橋は東武日光線のものであろうか。
この場所から、今度は道の駅「きたかわべ」に移動する。そこから歩いて、本日の目標地点に向かう。この場所が3県の県境である。Y字に見える水路の右側が群馬県、中央が栃木県、左側が埼玉県である。
写真右端の白く見える建物が、道の駅きたかわべ脇にある「スポーツ遊学館」である。この看板は、夏場は無理かもしれないが、道の駅きたかわべやスポーツ遊学館からも注意深く見れば見ることができる。
この地点の周囲にあった境界杭などである。刻んである文字は、左上は基点、右上は群馬縣、左下は板巾(群馬県板倉町の巾杭の意味?)、右下は界である。
歩いて道の駅まで戻る。スポーツ遊学館から渡良瀬遊水地(谷中湖)越しに見える晃石山や太平山である。良く見ると、電波塔やパラグライダーの離陸地点なども見える。
今日は、かなりレアな・・・と思える探訪であった。そして寒かった。風邪をひかないようにしないと・・・。
今回の奥武蔵林道に関する記事は、都幾川村「都幾川村史 通史編」(2001(平成13)年)の「奥武蔵グリーンライン」に関する記述についてである。
「戦後、荒廃した森林を復興し、治山治水のため緑化運動が活発に行われた。反面林業労働力の確保、森林資源の有効な利用のため林道の整備は緊要な問題となった。大野峠や白石峠などを結ぶ奥武蔵高原への本格的な道路建設は、明治期からの念願であった。関係市町村により昭和42年(1967)に奥武蔵林道開設期成同盟会が結成され、奥武蔵林道の早期開設促進が求められた。この林道は広域的な幹線林道であり、(中略)43年5月奥武蔵グリーンラインとして完成し、5月10日刈場坂(かりばさか)峠で栗原埼玉県知事を始め多数の来賓を迎えて盛大な完成式が催された。グリーンラインは定峰峠、白石峠、高篠峠、大野峠、刈場坂峠、飯盛峠を落葉樹やクマザサのなか奥武蔵の稜線を結ぶもので、極めて眺望も良く、浅間、谷川、日光、筑波の山々が遠くに浮び、関東平野を一望に見下ろすことができるものであった。この林道は白石峠で県道大野-東松山線と接続し、第二開拓から刈場坂峠の林道で結ばれている。特に第二開拓からの道路はこのグリーンラインと共に新しく開設された道路である。その後44年には橋倉橋とグリーンラインを高篠峠で結ぶ林道大野峠線が、45年(※)には刈場坂峠から檥(ぶな)峠、高山を経て顔振峠から飯能市を結ぶ工事が着工された。」
「第二開拓から刈場坂峠の林道」とは奥武蔵支線のことである。

次に「極めて眺望も良く」と記されていることについては、かつて奥武蔵高原は秣場であり、また引用した本文と一緒に掲載されている飯盛峠からの眺望の写真を見ると、その眺望の良さは、現在の状況からは想像だにできないものである。
なお、現在の大野峠線のうち高篠峠から301mの区間については、埼玉県により昭和41年度に、現在の奥武蔵1号線のうち白石峠から高篠峠の区間と同時に開設され、1982(昭和57)年に都幾川村管理の大野峠線へ編入されたものである。(都幾川村「都幾川村史資料 5-4 近・現代編」(1996(平成8)年))
※ 埼玉県「埼玉県行政史 第4巻」(1988(昭和63)年)では、この区間について昭和44年度から昭和46年度に開設されたと記されている。昭和45年1月から3月の間に着工されたと考えれば矛盾はない。
今朝は冷え込んだ。おそらくこの冬一番ではなかったろうか。
鳩山アメダスは、本日も埼玉県内及びその周辺ではぶっちぎりの冷え込みだった。最低気温は午前7時00分の-8.5℃。午前7時の気温と、最低気温の記録時間が同じ?で気温が異なるのが面白い。ちなみに日の出の時刻は東京で午前6時50分。
鳩山アメダスの記録を見ると、午前4時と午前5時の観測結果は「静穏」で風がほとんどなく、気温が下がる条件が整ったのだろう。
関東周辺のアメダスの画面を見ていると、野辺山アメダスの気温が際立って低いことにも気がつく。標高が1,350mなので、それなりに違うんだろうが、それにしても冷え込んでいる。
※ 上の写真はイメージです。
いきなり季節はずれのタイトルである。
ある方のブログで童謡「みどりのそよ風」に関する記事を読んだ。「緑のそよ風」もあるけど、とりあえず「みどりのそよ風」がいいと思う。
この曲は、清水かつら作詞、草川信作曲で、発表年については当方が調べた限り1946(昭和21)年のようで、子どもの頃に学校で歌った記憶はないが、聞いたことは何度もある「明るく朗らかな」曲である。歌詞が5番まであることは知らなかった。
作詞者ゆかりの地(埼玉県和光市・東京都板橋区)には歌詞碑などもあるようなので、そのうちに訪れてみたいものである。
今回の奥武蔵林道に関する記事は、埼玉県「埼玉県行政史 第4巻」(1988(昭和63)年)での「奥武蔵林道」の記述である。
埼玉県行政史 第4巻には、第1章 高度成長と開発行政の本格化 第3節 高度成長と農政の転換の中に「奥武蔵林道の開通」の項がある。その中から引用すると、
「本県の大規模な多目的林道としては、奥武蔵林道の開設があるが、この林道の第1期工事は昭和40年度に着工し、42年度に竣工したもので、飯能市の子の神戸(国道299号線)を起点として苅場坂峠、大野峠(標高853メートル)、白石峠を経て定峰峠に至る延長14キロメートル、総工事費2億4,000万円であった。このうち、昭和41年度分の延長1.8キロメートルは、農林漁業揮発油税の身替り措置として昭和40年度に創設された略称「農免林道」である。これは峠を越えて他の林道と接続することができることから峰越林道ともいわれた。
奥武蔵林道は、これまでこの地域に開設された各路線を結ぶことによって、林業生産団地の広域化、集団化、組織化による生産性の向上を図り、併せて森林レクリエーション機能の効果も発揮させようとするものであった。これは昭和48年度に国が定めた広域基幹林道に先駆けて実施したもので画期的な林道であった。なお、第2期工事は、昭和44年度から46年度に苅場坂峠から顔振峠まで延長13キロメートルを開設し、さらに、第3期工事は46年度から着工した。」と記されている。
当方が図書館で閲覧した資料※から奥武蔵林道に関する事柄をまとめると次のようになる。
昭和38~40年度施工 奈田良線(定峰峠~白石峠) 2,740m
昭和40~42年度施工 苅場坂線(子の神戸~刈場坂峠)5,620m
昭和41~42年度施工 奥武蔵1号線(白石峠~刈場坂峠) 5,424m
昭和42年度施工 奥武蔵支線(刈場坂峠付近~舟の沢) 1,270m
昭和43年5月10日 奥武蔵林道竣工式(刈場坂峠 栗原浩知事出席)
昭和44~46年度施工 奥武蔵2号線(風影~刈場坂峠) 11,768m
昭和46~不詳年度施工 権現堂線(中野線分岐~風影) 8,081m
昭和49年5月30日 奥武蔵林道完工式(刈場坂峠 畑和知事出席)

写真は「広報はんのう」1974(昭和49)年7月1日(第551)号より引用。
※ 埼玉県「埼玉県行政史 第4巻」(1988(昭和63)年)
埼玉県農林部森づくり課「森林・林業と統計 平成20年度版」(2008(平成20)年)
寄居林業事務所「寄居林業事務所30年のあゆみ」(1987(昭和62)年)
以前「奥武蔵グリーンライン」の名称の由来や範囲について調べたことがあり、その結果をこのブログ上に掲載していたのだが、その後の経緯を踏まえ、今回改めてカテゴリー「210奥武蔵林道」として整理し直すこととした。
現在、奥武蔵グリーンラインという名称は広く用いられてはいるものの、その範囲のとらえかたは様々である。この記事では、一つの試みとして奥武蔵グリーンラインの範囲を資料に基づいて探ってみたいと思う。
最初に取り上げる資料は、埼玉県「埼玉県総合振興計画」(1963(昭和38)年)である。この計画には観光開発道路としての「奥武蔵グリーンラインコース」が位置づけられている。
この計画での奥武蔵グリーンラインの位置づけは、飯能と秩父を結ぶ国道299号線(歴史的な意味での「吾野道」)の枝線的観光開発道路であり、第1次計画(計画年度は1962(昭和37)年度から1970(昭和45)年度)で、下図のとおり「正丸峠-刈場坂峠-大野峠-丸山-堂平山-定峰峠 総延長20km 幅員4.5m」を整備することとしている。

路線図を見ると、第1次計画には、林道苅場坂(かりばざか)線、林道奥武蔵1号線、林道奈田良線、大野峠から丸山までの丸山林道の一部、白石峠から堂平山に向かう林道堂平山線、白石峠から大野に至る県道大野東松山(172号)線の一部が含まれている。
この内、路線としてのつながりや、次に取り上げる新聞記事の内容等から考えて「奥武蔵グリーンライン」と呼ぶに相応しい路線は、苅場坂線、奥武蔵1号線、奈田良線の3路線、延長13,784mである。
昭和38~40年度施工 奈田良線(定峰峠~白石峠) 2,740m
昭和40~42年度施工 苅場坂線(子の神戸~刈場坂峠) 5,620m
昭和41~42年度施工 奥武蔵1号線(白石峠~刈場坂峠) 5,424m

次に資料として取り上げるのは、1968(昭和43)年5月9日付け埼玉新聞(1頁)の「奥武蔵林道 明日待望の完成式 観光開発へ第一歩 “グリーンライン”の布石に」という見出しの記事である。
この記事のリードには「さる38年度から建設を進めていた奥武蔵林道(飯能市子の神戸~東秩父村定峰峠17.625キロ)のしゅん工式が、あす10日午前11時から、苅場坂峠(飯能市・都幾川村)で行われる運びとなった。(中略)同林道は、奥武蔵グリーンライン(仮称)として、将来、観光道路に生まれ変わる”布石”として誕生したもので、無限の夢を秘めている。」と記されている。(延長は、当方が用いた埼玉県の資料※と異なる。)
また、この記事の本文には「観光ルートの開発構想として、県総合振興計画にもあげられている奥武蔵グリーン・ラインも、実はこれらの林道と既設道路等を利用するもの。長瀞付近から釜伏峠をへて、定峰峠に至るAコース、正丸峠から定峰峠に至るBコース、正丸峠から鎌北湖に至るCコースと合わせたルートである。Bコースは、すでに林道ができ上がっており、Cコースは奥武蔵林道の第二期工事に当たる部分で、Aコースが課題として残されている。観光道路建設となると主管は県企業局となるが、同局では、Aコース部分の基本設計の調査を本年度に実施したい意向を持っていたが、これは林道ではなく、本格的観光道路の建設となると、29億円の巨費を要し、基本設計の調査だけでも、1千万円の単位の調査費も要するなどといった理由で、予算化は見送られた。さらに、これまでにでき上がった奥武蔵林道を観光ルートのグリーン・ラインとして衣替えするには、なお、諸々の条件があって、はっきり煮詰まっている段階ではない。」と記されている。
これら2つの資料に加え、その後の奥武蔵グリーンラインに関する計画等が見当たらないことを考え合わせると、奥武蔵グリーンラインの範囲が曖昧となってしまった理由が分かる。
とはいえ、現実的な解釈としては「奥武蔵グリーンライン」とは県営奥武蔵林道のことであり、整備順に奈田良線、苅場坂線、奥武蔵1号線、林道奥武蔵2号線(11,768m)、林道権現堂線(8,081m)の5路線(合計33,633m)を指すと考えるのが妥当なのではないかと思う。

※ 農林部森づくり課「森林・林業と統計 平成20年度版」(2008(平成20)年)
寄居林業事務所「寄居林業事務所30年のあゆみ」(1987(昭和62)年)
子どものころ、お正月には「年の始めの例(ためし)とて 終りなき世のめでたさを 松竹立てて門ごとに祝う今日こそ楽しけれ」という詞の歌を歌った。調べてみると曲名は「一月一日」で替え歌も多いようである。
それはともかく、しばらく出かけることはできそうもないので、出かけることにした。行程的に現在の体力では無理なので車で出発。
まずはこちら。中東京幹線の鉄塔と工事が中断された西上武幹線の鉄塔である。所在は越生町大字大満と大字黒山の境界線上の尾根である。
林道猿岩線を登る。今まで気づいていなかったものに気づいた。猿岩線の名前の由来は「猿岩」なのだろうことは以前このブログの記事に書いたが、「猿岩線林道」という呼び方が面白いと思った。「中津川林道」とか「奥武蔵林道」とか「丸山林道」とか、「路線名」の後ろに「林道」が続く方が何となく林道っぽさを感じる。猿岩線林道の竣工は1970(昭和45)年3月と彫ってあるが、現在の「林道猿岩線」と同一区間であるかどうかは分からない。

3年連続して1月3日の高山不動である。

奥武蔵グリーンラインを走る。武甲山や両神山のビューポイントである。先日、ある方のブログの記事から、このあたりの場所から八ヶ岳の一部がかろうじて見えることを知った。いつか見てみたいものである。
刈場坂峠に到着。アスファルトの瓦礫が積んである。看板と短歌の碑の遠くに見える山は筑波山である。
高篠峠から大野峠線を走って大椚へ。時計台脇の道標は1933(昭和8)年に地元の青年団が建てたものである。以前に高篠峠で見た道標も1933(昭和8)年に建てられたものであったし、北向地蔵附近でみた道標も1937(昭和12)年に地元の青年団が建てたものであったし、昭和初期に青年団によって建てられた道標は多いような気がする。何らかの背景があったのだろうか・・・などと思う。調べてみると、埼玉県に限らず他県においても大正から昭和初期にかけて青年団が建てた道標が多く存在するようである。
しばし走って、紅梅をパチリ。
今日見た四方の山々である。どの写真もすっきり、くっきりとはしていないが、弓立山の向こうに男体山、関東平野の彼方に筑波山、そして富士山と浅間山である。

※ この記事は、内容を修正して「山々遠望」として再アップしたものです。
明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。
弓立山での2012(平成24)年の初日の出。雲の隙間からわずかに陽光を見る。