007 四方山探訪'12

2012年12月12日 (水)

相模野基線

今日は相模野基線(さがみのきせん)を探訪してきました。

相模野基線は国土地理院の地形図作成の基本的測量手法であった三角測量の最初の一歩ともいうべきものです。

国土地理院の地形図は、隣同士の一等三角点を結んで作る三角形の連なった網(一等三角網)を基礎として作成されています。

少々ややこしい話ですが、三角形の1辺の長さとその両端の角度が分かれば、他の2辺の長さは計算により求めることができます。

したがって、理論上は最初の三角形の1辺の長ささえ実測すれば、それ以降は角度のみを測ることによって全国に展開された三角網のすべての辺長を計算で求めることができることになります。

相模野基線は「一等三角網を作るために実測された最初の三角形の1辺」とでも表現すれば良いでしょうか。

下の文は、相模野基線北端点に設置されている相模原市教育委員会の「相模野基線北端点解説板」の解説文です。

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相模野基線北端点の沿革
所在地 相模原市麻溝台4丁目2,099番
沿革 相模野基線北端点は、明治15(1882)年に陸軍省参謀本部測量課(後の陸地測量部、現在の建設省国土地理院)が地形図全国整備計画に基づき、近代測量の最初の基線である相模野基線を設けるにあたり、同基線の北端にあたる当時の高座郡下溝村に設置したものです。
相模野基線は、この北端点と当時の高座郡座間入谷村に設置された南端点(座間市ひばりが丘1丁目)とを結んだ直線のことをいいます。
明治15年3月から準備作業が進められ、同年9~10月にかけて両端点間の実測測量が行われ、その基線の全長距離5209.9697mが算出されました。(相模野基線略図参照)
そして、この成果をもとに翌16年4月からは三角測量が開始され、「相模野基線網略図」のように順次((1)~(3))、基線を拡大することにより一等三角網(平均距離40kmごとに配置されている一等三角点により形作られている。)が形成され、より大きな三角網の基準となる丹沢山と鹿野山((3))の間の距離が算出されました。
その後、三角測量は順次全国へと進められ、それに基づいて作成された地形図は途中、縮尺の変更等がありましたが、大正14年には全国の5万分の1地形図として完成しました。
       建設省国土地理院監修  平成2年3月 相模原市教育委員会

※ ○数字は( )数字に置き換えました。下線を付した「基線を拡大」の表現についてはネット上を検索してみると「基線を増大」の表現も目立ちます。
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この解説文には略図が添付されていて、その略図を参照しながら読むと理解しやすいのですが、当方が作成した下の図を参照しながら次の文をお読みください。

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実は相模野基線が一等三角網の最初の基線となったのではなく、
(1)まずは相模野基線の南端点と北端点を結ぶ直線を基線として、東の長津田村及び西の鳶尾山を頂点とする2つの三角形を作り、
(2)次に長津田村と鳶尾山を結ぶ直線を基線として、南の浅間山及び北の連光寺村を頂点とする2つの三角形を作り、
(3)続いて浅間山と連光寺村を結ぶ直線を基線として、東の鹿野山及び西の丹沢山を頂点とする2つの三角形を作り、鹿野山と丹沢山を結ぶ直線を一等三角網の最初の1辺(基線)としたという手順になります。とはいえ、上の図に示した三角点はすべて一等ですので、相模野基線から始まった3段階の三角網も一等三角網なのかもしれません。

ということで探訪の開始です。早朝車に乗って出発し、まずは鳶尾山に向かいました。車を駐車できる場所を見つけるのに苦労しましたが、地元の方の散歩コースのようで中高年の方が多くおられました。一等三角点「鳶尾山」標高234.13mがあります。

※ 2013(平成25)年5月28日追記
この三角点の標石は、この三角点が移転を繰り返していること、標石自体の上部の面取りがないことなどから当初に設置された標石ではないものと思われます。

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南には一等三角点網を構築するために測量された平塚市の浅間山を見ることができました。浅間山の東(左)側には相模湾も見えました。

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続いて北端点に向かいます。途中、現在は北端点から鳶尾山を見ることは建物があって不可能と思われましたので、相模野台地からどのように鳶尾山が見えたのだろうと思い、相模野台地の東端である相模原麻溝公園東側の大山祇神社から鳶尾山を見てみました。

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相模原麻溝公園にあるグリーンタワー相模原にも昇ってみました。タワーの高さは55m、展望室の高さは38mで、展望室からは丹沢や奥多摩の山々、湘南の海、東京スカイツリーなども見えて良い景色でした。公園内で食べたホットドッグも美味しかったです。

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北端点に到着です。北端点は相模原市指定史跡であり、相模原市南区麻溝台4丁目2099にあり、一等三角点「下溝村」標高97.17mです。現地には相模原市教育委員会の解説板や相模野基線の土木學会選奨土木遺産の認定プレートなどがあります。

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続いて若干苦労して中間点に到着です。中間点は南端点とともに座間市指定重要文化財であり、座間市相模が丘2丁目346-2地先にあり、四等三角点「基線中間点」標高84.65mです。現地には座間中央ロータリークラブが寄贈した解説板があります。道路上に「相模野基線中間点 建設省国土地理院」と記されたマンホールがあり、その下に標石が設置されており、その先端には真鍮のキャップがあります。なお、中間点は1902(明治35)年、測地学会が相模野基線設定後に北端点及び南端点の間を測量した際に設けられたもので、設定が行われた1882(明治15)年の時点では、南端点から1,598mの位置に第1中間点、北端点から1,745mの位置に第2中間点が設けられていました。つまりは長さを測るときは南端点から測り始めたということでしょう。

続いて交通渋滞にあいながら南端点に到着です。南端点は座間市ひばりが丘1丁目5543番地にあり、一等三角点「座間村」標高74.90mです。現地には国土地理院が設置した北端点と同様の御影石のプレートがあります。

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最後に、一等三角点「長津田村」標高100.44mに到着です。「長津田村」は神奈川県横浜市緑区長津田町の飯縄神社(高尾さま)の境内地にあり、地形図上では東京工業大学すずかけ台キャンパスと東名高速の横浜町田ICの間に高尾山と表示されています。

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標石は上部の角が面取りされている珍しいものです。この場所からは、鳶尾山同様に南端点や北端点が見えたはずなのですが、建物の立ち並んだ現在では、どのように見えたのか知る由もありません。

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高尾山の近くにある南町田のグランベリーモールを見て帰路につきましたが、帰路の渋滞もかなりのもので、予想以上の時間を費やした探訪でしたが、懲りずに今度は、「浅間山」「連光寺村」の両三角点、更には「鹿野山」「丹沢山」の両三角点も探訪してみたいと思っています。

オマケ
理論的には基線は1本で良いはずですが、誤差の問題などから相模野基線が設定された以降に別の基線が設定さています。また5キロにも及ぶ基線の長さをどのように計測したのか、端点の構造はどうなっているのか等については、国土地理院東北地方測量部の非常に分かりやすいこちらの資料を御参照ください。

※ 2013(平成25)年5月28日追記
当方の一等三角点「連光寺村」の探訪記事はこちらです。
当方の一等三角点「浅間山」の探訪記事はこちらです。

※2014(平成26)年3月25日追記
当方の一等三角点「鹿野山」の探訪記事はこちらです。

※2014(平成26)年3月29日追記
当方の一等三角点「丹沢山」の探訪記事はこちらです。

※ この記事中の三角点の点名及び標高は国土地理院の基準点成果等閲覧サービスから引用したものです。

2012年12月 1日 (土)

借宿神社の狛犬

今日は飯能市の吾野の借宿神社(所在地:飯能市大字長沢6)の狛犬を見に行ってきました。午前中は仕事があったり通り雨があったりで、午後から車ででかけました。

借宿神社の狛犬との出会いは「峠の旅人※」のメニュー上の写真(奥武蔵の掲示板)です。初めて見たときは「どこの狛犬なのだろう・・・」というよりは「これって何?」と思ったのでしたが、そのまま所在を確かめることもなく、当然に探訪することもなく何年かが過ぎました。

このごろになって久保田和幸「狛犬探訪 埼玉の阿・吽たち」(2003年さきたま出版会)を読んで、「峠の旅人」の狛犬はどこの狛犬なのだろうと検索サイトの画像検索で調べ、吾野の借宿神社の狛犬であることが分かり、本日の探訪となったものです。

借宿神社に到着しました。あたりは国道299号線のバイパス工事(隧道・橋梁等)が行われていて、かつての風情とはかなり異なっているのだろうと思います。「借屋戸」の社号額が掲げられています。神社の位置はこちらです。

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まずは向かって右側の「吽形」の狛犬です。写真にマウスをのせると顔がアップになります。なんとも狛犬界の「ゆるキャラ」か・・・というようなゆる~い狛犬です。ほっとします。

続いて向かって左側の「阿行」の狛犬です。写真にマウスをのせると顔がアップになります。ひび割れなどもあって、このままだと風化が進みそうです。左目は何やら新しい感じがします。

この狛犬は、1926(大正15)年7月20日に建設されたもので、台座の内容を読むと、発起人2人、世話人6人、賛助員11人の合計19人によって奉納されたもののようです。きっと1926(大正15)年に奉納のきっかけになるような地区を挙げての何かがあったのかもしれません。ちなみに「村社借宿神社」の社号碑の建設は1925(大正14)年4月でした。

狛犬の口は、右も左も半開き状態で、どっちが「阿」で、どっちが「吽」なのか分かりずらいのですが、左側の狛犬の顔には「歯」らしきものが見えること、借宿神社内に新調された狛犬も向かって右が「吽」、左が「阿」になっていますので、これで間違いないのだと思います。

下の写真が、借宿神社の社殿前の位置に2010(平成22)年8月に新調された狛犬です。ゆる~い狛犬を社殿脇に隠居させ、替わって正式な狛犬の座に就いたとでもいうべき、いかにも強そうな狛犬です。同時期に鳥居も新調されています。おそらくは国道299号線のバイパス工事などとの関連があるのかもしれませんが詳細はわかりません。

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しかし、心から和(なご)める狛犬です。フォトロゲのネタに使えそうですね(^^

※ 「峠の旅人」のメニュー画面(奥武蔵の掲示板)へは当ブログの右列にリンクがあります。

※ 2012(平成24)年12月2日追記 狛犬の位置関係が分かる写真です。

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2012年8月15日 (水)

猪俣の百八燈

今日は以前から行って見たいと思っていた埼玉県児玉郡美里(みさと)町の「猪俣の百八燈(いのまたのひゃくはっとう)」を見に行ってきました。

事前に確認したWeb情報を総合すると会場近くの花火大会駐車場は午後4時には8割がた埋まってしまうとのことでしたので、少々早めに出発。寄居町の711で補給して午後3時過ぎには現地に到着しました。駐車場はすでに半分くらいは埋まっており、例年どおりなのでしょうか午後4時頃には8割、午後4時半には満車という感じでした。

現地に着いてまず驚いたのは「みさと」のアクセント。「トマト」のように最初にアクセントがあるのが現地での発音らしく少々びっくりでした。そしてもうひとつ。某自転車系ブロガーさんとバッタリ。世の中は狭いです。

さて、猪俣の百八燈は国の重要無形民俗文化財(昭和62年1月8日指定)です。行事は毎年8月15日に行われ、小野篁の子孫であり、武蔵七党の猪俣党の棟梁、猪俣小平六範綱及びその一族の霊を慰めるためのものと伝えられており、猪俣地区内の子ども達が猪俣小平六範綱の墓のある高台院(こうだいいん)を出発し、大きな提灯を先頭に太鼓や笛の音とともに松明(たいまつ)をかざして堂前山(どうぜんやま)に登り108基の塚に火を灯すというものです。

高台院にある猪俣小平六範綱の墓です。

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墓の前にある塚です。火を灯す準備がされています。

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高台院で子供たちによる寄せ太鼓が始まります。

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堂前山に登る行列です。正直のところ、国の重要無形民俗文化財とはいいながら、花火大会がなければ本当に静かな地域の行事という印象があります。

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五重塚に松明で火を灯します。

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その他の塚の灯明は・・・薪ではなく灯油の入った急須です。ティーポットもあったりしますが灯明の芯の綿の確保が大変に難しいようです。

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花火大会の日程に追われるように猪俣の百八燈は終了し花火大会が始まります。尺玉も上がって見栄えのする見事な番組の花火大会でした。

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それにしても猪俣の百八燈行事と、大きなトラックの荷台にステージが設けられ大音量のスピーカーから演歌が流れる喧噪の花火大会の組み合わせには、眼には見えない複雑なものを感じました。確かに打ち上げられる花火にも新盆供養や回忌供養のものがあるにはあるのですが、かつて純粋な農村地帯であった猪俣地区で、高台にある高台院で打ち鳴らされた寄せ太鼓の響きは、農作業の暇にやっとお盆を迎えた誰の心にも届いていたろうに・・・と思ったのです。

しかし、夜の写真は難しいですね。

2012年7月 8日 (日)

久地円筒分水

今朝方は雨で、さすがに山登りに出かける気にもならなかったので、以前から訪ねてみようと思っていた川崎市の二ヶ領用水(にかりょうようすい)の久地円筒分水(くじえんとうぶすい)に行ってきました。久地円筒分水は、川崎市?にお住まいの方から以前に教えていただいていて、いつかは行ってみようと思っていた分水です。自宅を車で出発して関越、環八、246、府中街道と走って現地に到着しました。

二ヶ領用水は多摩川の上河原堰及び宿河原堰で取水した水を用水として用いるもので、現地の案内板によれば、徳川家康の命を受けた小泉次太夫が、慶長2(1597)年から東京側の六郷用水とともに工事に着手し、14年の歳月をかけて慶長16(1611)年に完成させた神奈川県最古で最大の農業用水とのことです。また、久地円筒分水は、同様に現地の案内板によれば、昭和16(1941)年、多摩川右岸農業水利改良事務所長であった平賀栄治の設計建設により、水害防止のための新しい平瀬川の開削と二ヶ領用水の伏せ越しともに完成したとのことです。

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久地円筒分水により二ヶ領用水は、根方堀、川崎堀、六ヶ村堀、久地・二子堀の4つの堀に分水されますが、その比率は灌漑面積に応じた、7.415 : 38.471 : 2.702 : 1.675とのことで、円筒分水でなければ、その比によって正確に分水することは困難なように思います。

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埼玉県寄居町用土の比例円筒分水堰と比べて面白いところは、2重になっている円筒の内側の円筒から常に水が噴き出している訳ではないというところでしょうか。確かに上の写真で水は流れていますが内側の円筒は水がたまっているだけで越流はしていません。もしかすると、単に伏せ越しの上流側の水位を内側の円筒の天端以上にすれば水が吹き上がるというだけの話かもしれません。なお、近くで感じた水の臭いですが下水処理場の最終沈澱池ぐらいの臭いはします。いろいろと対策はとっているようですが昭和初期とは大いに違う都市化の状況を感じました。

その後、川崎といえばフロンターレということで、等々力(とどろき)陸上競技場に行ってみました。少年サッカーの試合が行われていました。陸上競技場のある等々力緑地には大きな釣池があるのですが、その池の水は二ヶ領用水の水かと思って調べてみたのですが、池は砂利をとった大きな穴で、池の水は多摩川の伏流水と雨水とのことのようで、ちょっと想像と違いました。

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等々力緑地を後にして府中街道を北上。せっかくですのでフロンターレグッズを売っている「フロンターレローソン」(略して「フローソン」、正確にはローソン高津駅前店)に寄って、飲み物等を補給。さらに北上して生田緑地を目指しました。藤子・F・不二雄ミュージアムがあったり、ドラえもんの市バスが走っていたりと面白いです。

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生田緑地の駐車場に車をとめ、川崎市立日本民家園を訪問しました。この園は川崎市立の野外博物館で、展示物は全国各地から移築した20数軒の民家ですが、建物の中には国指定重要文化財もあり、どの建物もすごいです。丘陵地に巧みにレイアウトされていますが、移築経費や維持経費が心配になってしまいます。写真撮影はNGとのことで、受付の係の方に確認してみると、個人的な写真は撮っても良いが、HPなどに掲載することは許可を得ない限りNGとのことなので看板の写真をアップしておきます。

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生田緑地を後にして「戦車道路」のある都立小山内裏(おやまだいり)公園を目指しました。小山内裏公園は東京都町田市と八王子市に跨る面積約46haの丘陵地の公園です。公園の中の尾根上には「尾根緑道(おねりょくどう)」が走っています。この道がかつて「戦車道路」と呼ばれていた道です。「戦車道路」の由来について現地の看板の内容を引用します。

----- 「戦車道路」の由来 -----
町田市と八王子市のほぼ境界を走るこの尾根の道は、以前は「戦車道路」と呼ばれていました。
それは、この道が第二次世界大戦の末期に、相模原陸軍造兵廠(現在の在日米軍相模原補給廠)で製造・組立てられていた戦車の性能テストと操縦訓練用の道路として造られたからです。
戦後しばらくは、防衛庁が管理していましたが、多摩ニュータウンの整備のため、土砂の運搬道路として舗装され現在に至っています。

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「戦車道路」が舗装もされていなかった頃、何度も訪れたことがあり、周辺を含めてのあまりの景色の変わりようにビックリするやら驚くやらでしたが、懐かしかったです。公園内の往復3,180mを歩き、最後に鑓水小山給水所の近くから夕焼けを眺めました。

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なお、当方の聞き取り調査では、小山内裏公園の「内裏」の由来は、江戸末期に京の内裏から来た能楽師がこの地に住み着いたことに由来するのだそうです。

今日は、以前から行きたかった久地円筒分水にも行け、30年以上ぶりに訪れた「戦車道路」も非常に懐かしかったです。

※ この記事はコメントの内容を参考にするなどして加筆修正したものです。

2012年1月14日 (土)

奥武蔵林道その2

今回の奥武蔵林道に関する記事は、都幾川村「都幾川村史 通史編」(2001(平成13)年)の「奥武蔵グリーンライン」に関する記述についてである。

「戦後、荒廃した森林を復興し、治山治水のため緑化運動が活発に行われた。反面林業労働力の確保、森林資源の有効な利用のため林道の整備は緊要な問題となった。大野峠や白石峠などを結ぶ奥武蔵高原への本格的な道路建設は、明治期からの念願であった。関係市町村により昭和42年(1967)に奥武蔵林道開設期成同盟会が結成され、奥武蔵林道の早期開設促進が求められた。この林道は広域的な幹線林道であり、(中略)43年5月奥武蔵グリーンラインとして完成し、5月10日刈場坂(かりばさか)峠で栗原埼玉県知事を始め多数の来賓を迎えて盛大な完成式が催された。グリーンラインは定峰峠、白石峠、高篠峠、大野峠、刈場坂峠、飯盛峠を落葉樹やクマザサのなか奥武蔵の稜線を結ぶもので、極めて眺望も良く、浅間、谷川、日光、筑波の山々が遠くに浮び、関東平野を一望に見下ろすことができるものであった。この林道は白石峠で県道大野-東松山線と接続し、第二開拓から刈場坂峠の林道で結ばれている。特に第二開拓からの道路はこのグリーンラインと共に新しく開設された道路である。その後44年には橋倉橋とグリーンラインを高篠峠で結ぶ林道大野峠線が、45年(※)には刈場坂峠から檥(ぶな)峠、高山を経て顔振峠から飯能市を結ぶ工事が着工された。」

「第二開拓から刈場坂峠の林道」とは奥武蔵支線のことである。

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次に「極めて眺望も良く」と記されていることについては、かつて奥武蔵高原は秣場であり、また引用した本文と一緒に掲載されている飯盛峠からの眺望の写真を見ると、その眺望の良さは、現在の状況からは想像だにできないものである。

なお、現在の大野峠線のうち高篠峠から301mの区間については、埼玉県により昭和41年度に、現在の奥武蔵1号線のうち白石峠から高篠峠の区間と同時に開設され、1982(昭和57)年に都幾川村管理の大野峠線へ編入されたものである。(都幾川村「都幾川村史資料 5-4 近・現代編」(1996(平成8)年))

※ 埼玉県「埼玉県行政史 第4巻」(1988(昭和63)年)では、この区間について昭和44年度から昭和46年度に開設されたと記されている。昭和45年1月から3月の間に着工されたと考えれば矛盾はない。

2012年1月 8日 (日)

奥武蔵林道その1

今回の奥武蔵林道に関する記事は、埼玉県「埼玉県行政史 第4巻」(1988(昭和63)年)での「奥武蔵林道」の記述である。

埼玉県行政史 第4巻には、第1章 高度成長と開発行政の本格化 第3節 高度成長と農政の転換の中に「奥武蔵林道の開通」の項がある。その中から引用すると、
「本県の大規模な多目的林道としては、奥武蔵林道の開設があるが、この林道の第1期工事は昭和40年度に着工し、42年度に竣工したもので、飯能市の子の神戸(国道299号線)を起点として苅場坂峠、大野峠(標高853メートル)、白石峠を経て定峰峠に至る延長14キロメートル、総工事費2億4,000万円であった。このうち、昭和41年度分の延長1.8キロメートルは、農林漁業揮発油税の身替り措置として昭和40年度に創設された略称「農免林道」である。これは峠を越えて他の林道と接続することができることから峰越林道ともいわれた。
奥武蔵林道は、これまでこの地域に開設された各路線を結ぶことによって、林業生産団地の広域化、集団化、組織化による生産性の向上を図り、併せて森林レクリエーション機能の効果も発揮させようとするものであった。これは昭和48年度に国が定めた広域基幹林道に先駆けて実施したもので画期的な林道であった。なお、第2期工事は、昭和44年度から46年度に苅場坂峠から顔振峠まで延長13キロメートルを開設し、さらに、第3期工事は46年度から着工した。」と記されている。

当方が図書館で閲覧した資料※から奥武蔵林道に関する事柄をまとめると次のようになる。

昭和38~40年度施工 奈田良線(定峰峠~白石峠) 2,740m

昭和40~42年度施工 苅場坂線(子の神戸~刈場坂峠)5,620m

昭和41~42年度施工 奥武蔵1号線(白石峠~刈場坂峠) 5,424m

昭和42年度施工 奥武蔵支線(刈場坂峠付近~舟の沢) 1,270m

昭和43年5月10日 奥武蔵林道竣工式(刈場坂峠 栗原浩知事出席)

昭和44~46年度施工 奥武蔵2号線(風影~刈場坂峠) 11,768m

昭和46~不詳年度施工 権現堂線(中野線分岐~風影) 8,081m

昭和49年5月30日 奥武蔵林道完工式(刈場坂峠 畑和知事出席)

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写真は「広報はんのう」1974(昭和49)年7月1日(第551)号より引用。

※ 埼玉県「埼玉県行政史 第4巻」(1988(昭和63)年)
   埼玉県農林部森づくり課「森林・林業と統計 平成20年度版」(2008(平成20)年)
   寄居林業事務所「寄居林業事務所30年のあゆみ」(1987(昭和62)年)

2012年1月 7日 (土)

奥武蔵グリーンラインの歴史

以前「奥武蔵グリーンライン」の名称の由来や範囲について調べたことがあり、その結果をこのブログ上に掲載していたのだが、その後の経緯を踏まえ、今回改めてカテゴリー「210奥武蔵林道」として整理し直すこととした。

現在、奥武蔵グリーンラインという名称は広く用いられてはいるものの、その範囲のとらえかたは様々である。この記事では、一つの試みとして奥武蔵グリーンラインの範囲を資料に基づいて探ってみたいと思う。

最初に取り上げる資料は、埼玉県「埼玉県総合振興計画」(1963(昭和38)年)である。この計画には観光開発道路としての「奥武蔵グリーンラインコース」が位置づけられている。

この計画での奥武蔵グリーンラインの位置づけは、飯能と秩父を結ぶ国道299号線(歴史的な意味での「吾野道」)の枝線的観光開発道路であり、第1次計画(計画年度は1962(昭和37)年度から1970(昭和45)年度)で、下図のとおり「正丸峠-刈場坂峠-大野峠-丸山-堂平山-定峰峠 総延長20km 幅員4.5m」を整備することとしている。

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路線図を見ると、第1次計画には、林道苅場坂線、林道奥武蔵1号線、林道奈田良線、大野峠から丸山までの丸山林道の一部、白石峠から堂平山に向かう林道堂平山線、白石峠から大野に至る県道大野東松山(172号)線の一部が含まれている。

この内、路線としてのつながりや、次に取り上げる新聞記事の内容等から考えて「奥武蔵グリーンライン」と呼ぶに相応しい路線は、苅場坂線、奥武蔵1号線、奈田良線の3路線、延長13,784mである。

昭和38~40年度施工 奈田良線(定峰峠~白石峠) 2,740m

昭和40~42年度施工 苅場坂線(子の神戸~刈場坂峠) 5,620m

昭和41~42年度施工 奥武蔵1号線(白石峠~刈場坂峠) 5,424m

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次に資料として取り上げるのは、1968(昭和43)年5月9日付け埼玉新聞(1頁)の「奥武蔵林道 明日待望の完成式 観光開発へ第一歩 “グリーンライン”の布石に」という見出しの記事である。

この記事のリードには「さる38年度から建設を進めていた奥武蔵林道(飯能市子の神戸~東秩父村定峰峠17.625キロ)のしゅん工式が、あす10日午前11時から、苅場坂峠(飯能市・都幾川村)で行われる運びとなった。(中略)同林道は、奥武蔵グリーンライン(仮称)として、将来、観光道路に生まれ変わる”布石”として誕生したもので、無限の夢を秘めている。」と記されている。(延長は、当方が用いた埼玉県の資料※と異なる。)

また、この記事の本文には「観光ルートの開発構想として、県総合振興計画にもあげられている奥武蔵グリーン・ラインも、実はこれらの林道と既設道路等を利用するもの。長瀞付近から釜伏峠をへて、定峰峠に至るAコース、正丸峠から定峰峠に至るBコース、正丸峠から鎌北湖に至るCコースと合わせたルートである。Bコースは、すでに林道ができ上がっており、Cコースは奥武蔵林道の第二期工事に当たる部分で、Aコースが課題として残されている。観光道路建設となると主管は県企業局となるが、同局では、Aコース部分の基本設計の調査を本年度に実施したい意向を持っていたが、これは林道ではなく、本格的観光道路の建設となると、29億円の巨費を要し、基本設計の調査だけでも、1千万円の単位の調査費も要するなどといった理由で、予算化は見送られた。さらに、これまでにでき上がった奥武蔵林道を観光ルートのグリーン・ラインとして衣替えするには、なお、諸々の条件があって、はっきり煮詰まっている段階ではない。」と記されている。

これら2つの資料に加え、その後の奥武蔵グリーンラインに関する計画等が見当たらないことを考え合わせると、奥武蔵グリーンラインの範囲が曖昧となってしまった理由が分かる。

とはいえ、現実的な解釈としては「奥武蔵グリーンライン」とは県営奥武蔵林道のことであり、整備順に奈田良線、苅場坂線、奥武蔵1号線、林道奥武蔵2号線(11,768m)、林道権現堂線(8,081m)の5路線(合計33,633m)を指すと考えるのが妥当なのではないかと思う。

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※ 農林部森づくり課「森林・林業と統計 平成20年度版」(2008(平成20)年)
   寄居林業事務所「寄居林業事務所30年のあゆみ」(1987(昭和62)年)